The Sky Guitar スカイ・ギター

Sky Guitar;スカイギター
 デュッセルドルフ(Düsseldorf)生まれハノーファー(Hannover)育ちのギター奏者&作曲家、ウリ・ジョン・ロート (ウルリヒ・ロート)がヴァイオリンの高音域を実音で演奏可能にするために設計した、シャントレルをE4とした時に同一弦上でB6音以上を発音可能にする長さの指板を備え、巴に一部括れを入れた形に似る胴体を持った6単弦または7単弦のソリッドボディ型エレクトリック・ギター。

 一般には30前後のフレットを持つエレクトリック・ギターを指して総称的に使われることもあるが、模倣品騒動後の誤解を考慮して 本稿では厳密にウリ・ジョン・ロートがスカイギターと認めている自ら製作に関わった物を以ってこれとする。

Lacôte School 1858
 19世紀3大名工の1人、ルネ=フランソワ・ラコート(René-François Lacôte)の後期モデルを弟子のデュブルグ(Dubrg)が組み立てた24f7単弦ラコート。N.コスト発案によるラコート製はエプタコルド(Heptacorde)と呼ばれ7列目は曲によって変化、主にB1~D2が想定されていたようだ*3。この大型響胴の7単弦仕様は1839年迄には開発されていた。

 高音、低音ともにフェンダー社製21f6単弦エレクトリックギター、ストラトキャスター(Stratocaster)の音域にかねてから満足していなかったウリ・ジョン・ロート (ウルリヒ・ヨハヒム・アントン・ヨーゼフ・ロートUlrich Joachim Anton Joeph "Uli Jon" Roth 詳細は「Curriculum Vitae」参照)は、「どんなギターでも作ってやる」というブライトン(Brighton)在住のギリシア系ギター製作家アンドレアス・ディミトゥリウ(Andreas Demetriou)に出会い、愛用の2本のストラトキャスターにフレットを2つ足し23f(D#5)にしてもらう。しかし更に高い音程を欲した彼は自らギターのデザインを始める。これがスカイギター(Sky Guitar)の起源である*1

 当時はフェンダー社(Fender)製で21f(C#5)、ギブソン社(Gibson)製で22f(D5)が主流であったが、 19世紀ギター(Romantic Guitar)にも既に24f(E5)が存在していた他、ギターではないが16~17世紀にイタリアで流行したコラシオーネ(Colascione)という2単弦または3単弦の金属弦有棹撥弦楽器で24f仕様はあったようだ。またアジアに目を移すと、リウト(Liuto, リュートLute, ラウテLate, リュトLuth)と祖を一にすると考えられる中国の4単弦直頸琵琶(北琵琶ペイ・ピ・パBěi Pí Pa)*4においては1950年代頃から31f(B5)が標準仕様となっており、また長頸型(Long neck)ではウイグル(回紇, 回鶻, Uyghur)族が用いる3コース5弦楽器タンブール(Tembor)で27f以上が一般的。この他のフレット付撥弦楽器ではモダン・ナポリ・マンドリン(マンドリーノMandolino, Mandolin)で25~30f超の仕様が、ギリシャ共和国(エリーニキーΕλληνική Δημοκρατία)のブズーキ(ムプズーキ(?)Μπουζούκι)が26f、またロシア連邦(ロッシヤРоссийская Федерация)のモダン・バララーイカ(Балалайка)*2が19世紀後半に合奏楽器として確立した際にモダン・ソプラノ・ヴィオロン(ヴァイオリンViolin, Violine, ヴィオリーノViolino, ヴィオロンViolon, ディスカント=ガイクDiscant-Geig)やマンドリンの影響を受けて27f仕様が一般的な仕様となっている。

 ラウンド・バック(Round back)のモダン・マンドリンで27f仕様が現れたのは19世紀中葉ローマ(Roma)のルイージ・エンベルガー(Luigi Embergher)製の頃からのようで、これはマンドリン合奏における最高音楽器としてソプラノ・ヴィオロンの影響を受けていると思われる。なお現在一般に「マンドリン」と言われる5度調弦の4複弦有棹撥弦楽器はナポリ(Napoli)で確立されたものでナポリ・マンドリンでは17fが標準的だった。この他小胴のフィレンツェ型、中世マンドーラの仕様を残すミラノ(Milano)型や駒高のローマ型、太棹のジェノヴァ型等イタリア各地に固有のマンドリンが存在している。

 ジェノヴァ・マンドリン(Mandolino alla Genovese)は金属弦6複弦仕様。複弦は全列ユニゾンで調弦はギターの汎用調弦のオクターヴ上となっており、北イタリアやフランスで普及していた。ジェノヴァ共和国(Repubblica di Genova, 現イタリア共和国領)の首都ジェノヴァ(Génova, Genoa)出身のヴィオロン、ギター&マンドリン奏者ニッコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini)が最初に父から教わった楽器で作品も残している。P. J. ボーンの『ギターとマンドリン』ではパガニーニ愛用の楽器としてナポリ・マンドリンの写真が掲載され日本ではこの情報が広く伝えられたものの、元々観光用に用意された資料で写真が学術的に本物とされているかは不明とのこと。

 また18世紀前半ヴェネツィア共和国(Repubblica di Venezia)出身のヴィオロン奏者・作曲家・音楽教師・司祭アントーニオ・ルツィオ・ヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi)が想定したマンドリーノはミラノ型の弦長約300㎜10f6コース仕様(G2G2-B2B2-E3E3-A3A3-D4D4-G4G4)という指摘もあるが詳細不明。マンドリーノはリコーダーやバロック型ソプラノ・ヴィオロンと同様最高音楽器として使用されていた。弦長約440㎜の9f6コース・ソプラノ・リウトが使われたという話もあるようだが、ソプラノ・リウトがイタリアで使われたのは16世紀末~17世紀初頭で、17世紀半ばにはスペインで民族楽器として残る程度だったことから可能性が低いとの指摘や、オクターヴ上げた譜面によりテナー・リウトのための曲をソプラノ用と誤解して主張しているとの反論も出ている。詳細確認中。

 本来イタリア語ではマンドリーノと呼ばれるが、一般にはバロック・マンドリーノなど古楽器を指して使われることが多い。クラシック音楽では18世紀後半神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation, 現オーストリア共和国領)領ザルツブルク(Salzburg)出身の作曲家&鍵盤奏者ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(ヨハンネス・クリソストムス・ヴォルフガングス・テオーフィルス・モーツァルトJohannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus "Wolfgang Amadeus" Mozart)、19世紀前半パルマ公国(現イタリア共和国領)出身のジュゼッペ・ヴェルディ(ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディGiuseppe Fortunino Francesco Verdi)が取り上げているが想定機種については確認中。19世紀後半ではドイツの作曲家・歌劇場楽団指揮者グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)は交響曲「大地の歌」で取り上げている。マンドリン・オーケストラ音楽ではマンドリーノを最高音楽器として中音楽器にマンドーラ、中低音楽器にマンドロンチェロ、最低音楽器にマンドローネが配されるが、他にギターやコントラバス・ヴィオロン等他楽器が加わることもある。

 フラット・バック(Flat back)のマンドリンでは1922年半ばにロイド・ロアー(Lloyd Allayre Loar)によるモダン・ソプラノ・ヴィオロンやハープ・ギターのデザインを取り込んでデザインしたと言われているF型フラットバック・マンドリンF-5をギブソン社が発表しているが、その前進となるF-4F-3も含めてフレット数に関しては24f以内。

 フラットバック・マンドリンは19世紀末頃生まれたようだが、18世紀以前からイギリス・ギター(イングリッシュ・ギターEnglish Guitar)やアイルランド・マンドリンが一部例外を除きフラット・バックを標準としており、イギリスで流行した他アメリカにも大量に輸出されていたことが影響していると思われる。ヴェネスエラ音楽でも旋律楽器として重要な役割を果たしているとのこと。通常は4コースだがR. サンドバルは5コース仕様使用しており、20世紀初頭にイタリア人奏者が使っていたとも言われるとのことで詳細確認中。また現代ではブラジルの奏者が増弦傾向という。

 音響的にはラウンド・バックが近鳴り、フラット・バックが遠鳴りに良い効果を齎すとの指摘もあり、大型化した会場、大音量化に対応する利点も考慮された可能性は考えられる。詳細調査中。 打楽器のティンパニは逆に元来フラットだった釜がアメリカで底部に丸みを帯びるようになったというが、17世紀のドイツには既に丸い釜の太鼓が存在しており真偽は不明。因みにジョセフ・ハイドン(フランツ・ヨーゼフ・ハイドンFranz Joseph Haydn)は丸い釜のティンパニが嫌いだったというが、理由は調査中。

 フラット・バックとラウンド・バックの中間的な特徴を持つ構造としては、横板(リブRib, アロスAros)を傾斜させることで表面板(トップTop, タパTapa)を大きく、裏板(Back, スエロSuelo)を小さくしたスロープ・サイド(Slope side)と呼ばれる仕様があり、1700年代にフランスやベルギーのギターで流行した。ギブソン社を立ち上げたオーヴィル・ヘンリー・ギブソン(Orville Henry Gibson)はフラット・バック・マンドリン製作で名を挙げた。彼は後にアコースティック・レクトリック社(Acoustic-Lectric)も立ち上げている。

 ソリッドボディのエレクトリック・マンドリンはフラット・バック・マンドリンの形状が受け継がれているが、登場時期は調査中。フェンダー社では1955年冬に開発を始めて1956年10月に出荷されている。これは24f4単弦仕様で29f仕様は1983年にイギリス(北アイルランド&大ブリテン連合王国the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)ウィンザー朝第4代エリザベス2世(Elizabeth Alexandra Mary)から「マエストロ(Maestro)」の称号を授かったウィンザー(Windsor)出身の弦楽器奏者・作曲家・楽器発明家のマエストロ・アレックス・グレゴリー("Maestro" Alex Gregory)が設計した改良型5単弦仕様が1992年に登場している。A.グレゴリーによればC. L.フェンダーが最初に開発したのは1954年で試作型は4複弦仕様で、現在A.グレゴリーが所有している。単弦化した理由はアンプで音量を増幅すれば複弦は必要ないからとのこと。

 A.グレゴリーはその後ギブソン製エクスプローラー型や自身のブランド、ペンタシステム(Pentasystem)からペンタリン(Pentalin)といったエレクトリック・マンドリンを発表している。弦長は弦の張力の問題から14吋(355.6㎜)以上は取れないと言われフェンダー製マンドリンはソプラノ・ウクレレと同じ13.625吋(346.075㎜)だが、緒留を底部に引き下げ弦蔵を傾斜2度、桿棹と響胴の取り付け角度を1度とすることで15.125吋(384.175㎜)弦長を可能にした。調弦は4単弦仕様がソプラノ・マンドリンと同様の5度調弦G3-D4-A4-E5、5単弦仕様は4度調弦のE3-A3-D4-G4-C5で、これはプエルト・リコ島のティプレ・ドリエンテ(Tiple Doliente)等にも見られる。詳細は「ペンタシステム」及び「Other I 」参照

 F-5ではヴィオロン等で一般的なf字孔を採用しており、第2次世界大戦後、ブルーグラス(Bluegrass)音楽でビル・モンロー(ウィリアム・スミス・モンローWilliam Smith Monroe)が使用したことから有名になった。この他マンドラ(マンドーラMandola)のH-5、マンドセロ(マンドチェッロMandocello)のK-5も同時に発表されており、マスター5シリーズと呼ばれている。f字である理由は外見の装飾的な意味合いの他に、孔縁付近にかかる圧力を分散し亀裂が入りにくい形状であるとも言われており、16世紀前半のイタリアでは既に擦弦楽器で採用されていたようだ。一般にヴィオロン属でf字孔、ヴィオル属でc字孔という特徴はあるが、f字孔自体はヴィオロン属誕生以前の15世紀には既にヴィオルで用いられており、それ以外にも鈎状等幾つか種類があることから試行錯誤が繰り返されたとみられる。また一見同じように見えるヴィオロン属のf字孔も製作家によって差異は見られる。琵琶等古い有棹撥弦楽器でも三日月形が見られるが、関連は不明。

 F型マンドリン(Style F)では響胴(Body)低音側の棹胴接続部(Neck joint)付近に渦巻型の意匠(Scroll Shape)が採用されているが、これは19世紀中頃から響胴を弦蔵(Head)側に延長させた響腕を持った多弦ギターの影響と思われる。F-5の意匠は間もなくギターへも流用されL-5を生んでおり、これを初のf字孔付きアーチトップ・ギター(Arched-top guitar, チェロギターCello-guitar, プレクトラム・ギターPlectrum-guitar)とする記事もあるが、1910年頃カンザスシティ(Kansascity)のシャット社(Shutt)が同仕様のマンドリン及びギターを生産していたようだ。L-5はエディ・ラング(サルヴァトーレ・マッサロ"Eddie Lang" Salvatore Massaro)が1929年以降L-4に代えて使用したことで知名度を上げたと言われている。

E1 F1 G1 A1 B1 C2 D2 E2 A2 D2 G3 B3 E4
Sytle U
Style R
Scroll Shape
Style U Style O
 アーチトップ・ギター自体は1809年に造られたミルクール(Mirecourt)のモーシャン(Mauchant)製ギターで既に見られるとのことで詳細確認中。ただし「アーチトップ」という表現に関しては、表板を鑿や鉋で立体的に削り出した厚めの「カーヴド=トップ(Carved-top)」と、単板や合板を蒸気圧縮加工(Steam-press)によって立体的に成型した「アーチド=プレスト(Arched-Pressed)の2種類が共にカーヴド=トップ(Curved-top)として混同されたり宣伝に利用されて曖昧になっているところから注意が必要になる。蒸気圧縮加工は19世紀に誕生した手法で、ミルクールで製造された楽器ではヴァイオリン等も同様の手法で量産された物があった。20世紀以降の楽器でも同様の製品は多く、「アーチトップ・ギター」と言えば通常こちらを指すが、中には古典的製法で削りだされたアーチトップ・ギターも存在しており、またカーヴド=トップでも機械による自動切削を行っている場合があって、手工品との外見の区別が難しくなっている。どの製法であっても演奏上特に問題は生じないが、均質な材料が得られた場合は機械の方が量産の精度が高くなり、ムラや個性のある材料も生かす場合は手作業による削り出しの方が板厚を変える事で楽器の性格を柔軟に調整することが可能という特徴がある。

 ギブソン社は1902年から桿棹上の6単弦と12の浮遊弦(Floating string, 番外弦, オル・マンシュ)から成る主弦6列浮遊弦12列20f18単弦ギター、スタイルU(Style U)でも採用しており、更に前にはO.H.ギブソンが1886年から製作していたスタイルO(Style O)に既に見られる。スタイルOは当初左右対称の瓠形(又は8字形)響胴だったが、1908年以降渦巻意匠を採用している。スタイルUは12音階をそのまま浮遊弦に割り当てたもので、調弦はE1-F1-F#1-G1-Ab1-A1-Bb1-B1-C2-C#2-D2-Eb2-E2-A2-D3-G3-B3-E4。また浮遊弦が10本の16単弦仕様も存在。当初弦長は主弦が27.5吋(698.5㎜)、浮遊弦が35.5吋(901.7㎜)だったがその後主弦25.5吋(647.7㎜)及び浮遊弦34吋(863.6㎜)に変更され1908年以降は主弦24.75吋(628.65㎜)、浮遊弦34吋(863.6㎜)となり、以降ギブソン社のギターは24.75吋(628.65㎜)の弦長を標準としている。ただし実際はそれより若干短くなっているとの指摘がある。これは音程調整のためと思われるが、詳細は「Sky II」の脚注参照。

 また桃花心木(マホガニーMahogany)製だったスタイルUと同時にウォルナット(Walnut)製で半音階を省いた6本の浮遊弦からなる12単弦ギター、スタイルR(Style R)も発表された。更にこれらは装飾を加えたU-1R-1といった亜種も誕生している。

 なお、ウォルナットと呼ばれる木材は複数あり、具体的にどの種類かは不明。低音対策ということを考えると通常ベース・ギター等に使われる北米東部産のブラック・ウォルナット(Black Walnut)と思われる。加工性や接着強度が高く衝撃にも強い、狂いが少ない、また木目も美しいことから銃床、高級家具の部材や装飾、扉等に利用されている。同じ北米でも西部産の物はカリフォルニア・ウォルナット(California Walnut)やヒンズ・ウォルナット(Hindsii Walnut)と呼ばれ、クラロ・ウォルナット(Claro Walnut)とも総称される。加工性・乾燥性はやや落ちるが耐久性、接着性は高く、木目の装飾的な価値は更に高い。家具や高級車のダッシュボード(Dashboard)などに利用するが、表面に現れる瘤杢(Burl)は狂いが激しいため突き板にも利用されるとのこと。その他南アジア産にイースト・インディアン・ウォルナット(East Indian Walnut)、日本(Nihon, Japan)産に鬼胡桃(Oni-gurumi)等があり、共に強度・加工性が高く狂いは少ない。これらは同じクルミ科クルミ属だが、一方でオーストラリア連邦(Commonwealth of Australia)産クィーンズランド・ウォルナット(Queensland Walnut)はクスノキ科、東南アジア産ニューギニア・ウォルナット(New Guinea Walnut)はフィリピン共和国(Republika ng Pilipinas)産のダオ(Dao)に相当するウルシ科、西アフリカ産アフリカン・ブラック・ウォルナット(African Black Walnut)は別称マンソニア(Mansonia)と呼ばれるアオギリ科の別種。

 いずれにしてもF型マンドリン同様一見カッタウェイかのように思える非対称な形状だが、低音側の渦巻は棹に接触しておらず、主棹の接続位置自体は両側とも12f。F-5になって15f接続がみられるが、スタイルOは1910年以前から15f接続。なおL-5は14f接続でカッタウェイが導入されたのは1939年のL-5 Premierから。1948年以降はL-5Cと名前を変えている。一方でノンカッタウェイのL-5も1958年まで生産されたようだ。ソリッド・ギターでは1952年のレス・ポール(レスター・ウィリアム・ポルファス"Les Paul" Lester William Polfus)によるシグナチュア・モデルから既に採用されている。このモデルではテッド・マッカーティ(セオドア・マッカーティTheodore M. McCarty)が開発したチューン・オウ・マティック(Tune O Matic)型下駒が初めて採用された。

 ギブソン社以外ではチェント(Cento)出身のギター奏者マリオ・マッカフェッリ(マリオ・マカフェリーMario Maccaferri)が1932年にパリ(Paris)の管楽器製作家アンリ・セルマー(Henri Selmer)の工場で製作したギターに、棹胴接続位置を低音側14fに対して高音側17fと深めにした物がみられ、6単弦ギターのカッタウェイ仕様としては現在確認出来た中で最も古い。

 6単弦に限らなければ1926年にM. マッカフェッリが初めて製作した24f9単弦ギター;キタローネ・メッツァ=リラ(Chitarrone mezza-lira)にも同様の形状は見られ、後にセルマー社からモデル・コンサート(Model Concert)として発売されている。ロンドン(London)生まれハンプトン(Hampton)育ちのギター&リウト奏者ジュリアン・ブリーム(Julian Bream)も幼少期にマッカフェッリ型9単弦ギターを使用していた。

 J. ブリームが9単弦仕様でギターを始めたのは、父でギター愛好家だったヘンリー・ブリーム(Henry Bream)が浮遊弦の効果を評価していたことや、最初の師だった医師でロンドン・ギター愛好会(PHILHARMONIC SOCIETY OF GUITARISTS)総裁のボリス・ペロット(Boris Perott)が主弦6列浮遊弦4列の23f10コース紋章形ギターを使用していたことに起因する。

 ジュリアンはロンドンで中古の主弦6列浮遊弦3列の24f9単弦コンサート・ギターを入手しメインギターとして学んでいるが、これは響腕の無い単棹で響孔もD字形ではなく横に広がった楕円形。また骨棒が3列ずつ3部品に分かれている。把位象嵌は施されておりカッタウェイも存在するが、接続位置が低音側12f高音側19f接続となっている。セルマー製モデル・コンサートには響腕が存在しており(「Sky VI」参照)響孔はD字形、骨棒は1本で全列を賄っており、接続位置も既述の通り異なっていることから、複数の仕様が存在したのかセルマー以前のマッカフェッリ製キタローネ・メッツァ=リラの一種なのか、それ以外のメーカーの物なのか詳細確認中。1947年の『B. M. G. (BANJO, MANDOLIN, GUITAR)』誌で表紙を飾った際には9単弦ギターを抱えている。

 6単弦スペイン・ギターに転向したのは、ギター愛好会の会報編集者でJ.ブリームのデビュー・コンサートのプロモーターを務めたウィルフレッド・アプレビィ(Wilfred Appleby)が浮遊弦を嫌って6単弦スペイン・ギターを弾かせたことや、B.ペロットの奏法では表板に指を接触させるのでスペイン系の楽曲を演奏するのに不利な為奏法を変更したことなどが理由。

 なおジュリアンの最初のギターがギター教師ヘクター・クワイン(Hector Quine)製作による物という記事もあるが、これは6単弦スペイン・ギターに限ってのこと。H.クワイン製ギターは1956年にホアキン・トゥリーナ(Joaquín Turina)作曲の「ソナタ ニ短調 作品61(Sonata en re menor, para guitarra (op. 61))」の演奏に使用した録音が残されている。

 6単弦モダン・スペイン・ギター転向後はデイヴィッド・ルビオ(David Rubio)製他多数を使用。また1950~60年代にはD.ルビオが改造したトーマス・ゴフ(Thomas Goff)製リュート=ギターも使い、1970年代に入ると1~2列目単弦の主弦8列14f8コース14弦バロック・リウトや金属フレット、骨棒付仕様で1~2列目単弦の主弦9列9コース16弦モダン・リウト、スイスのルークプレントン製10コース・リウトを使用している。その他膝臏夾立式モダン・ヴィオロンチェロ(Violoncello, チェロ, セロCello)やピアノ(Piano)の経験もあったようだ。D.ルビオは後にポール・ガルブレイス(Paul Galbraith)向けに8単弦ギターも製作している(「Sky VI」参照)

 M.マッカフェッリはU.J.ロートやJ.ブリームにも影響を与えたリベルシエ(Liberchies)出身のジャズ・ギター奏者ジャンゴ・ラインハルト(ジャン=パプティスト・レナールJean-Baptiste "Django" Reinhardt)が使用したことで知られるセルマー製ギターのデザイン及び初期生産を指揮した他、1926~1927年頃にはモダン・ソプラノ・ヴィオロンや膝臏夾立式モダン・ヴィオロンチェロの製作コンクールで入賞、合成樹脂製ウクレレ等を設計して大流行を起こしたことで知られる弦楽器製作家、また吹奏楽器用蘆舌(rozetsu, 簧shita, リードReed)製作家で、晩年はサーガ・ミュージカル・インストゥルメンツ(Saga Musical Instruments)の日本買付機関として1983年に設立された名古屋の楽器輸出入卸商サガ・ジャパン(Saga Japan, 1995~2007: 有限会社細川、現株式会社ホスコ)とも関係が深かったとのこと。

 水泳中の事故をきっかけにコンサート・ギター奏者を引退する前は親指のみ義爪(サム・ピックThumb pick)を用いたクラシック・ギター奏者としてヨーロッパを中心に評価を得ており、アル=イスカンダリーヤ州(الاسكندرية, al-Iskandarīya, アレクサンドリアAlexandria)州都アル=イスカンダリーヤ出身のギター奏者アレクサンドル・ラゴヤ(Alexsandre Lagoya)とのギター二重奏で知られるオー=ド=セーヌ県(Hauts-de-Seine)シュレーン(Suresnes)出身のイダ・プレスティ(イヴェット・イダ・モンタニョンYvette Ida "Presti" Montagnon)や、メルボルン(Melbourne)出身のギター奏者ジョン・ウィリアムズ(ジョン・クリストファー・ウィリアムズJohn Christopher Wiiliams)の父でロンドン出身のピアノ奏者、アリストーン・ギター(Aristone Gutiars)の設計者レン・ウィリアムズ(レオナード・アーサー・ウィリアムズLeonard Arthur "Len" Williams)の師でもあった。

 I.プレスティに関しては父親のクロード(Claude)が唯一の師であるという情報もあるが、父には始めピアノを教わり、その後ギターを、M.マッカッフェリには1932~33年にかけて2年間教わっている。このようにギター史に関しては6単弦モダン・スペイン・ギターの主流に直接関わりない楽曲、奏法、楽器、情報は適宜取捨選択された上で「ギター史」とされていることがある為注意が必要となる。

 M.マッカフェッリは引退後にTVのショウ番組で「謎の覆面ギター奏者」として演奏したこともあるが、楽器の設計・開発等を主に行っていたようだ。リナーレス(Linares)生まれグラナダ(Granada)育ちのギター奏者アンドレス・セゴビア(アンドレス・セゴビア・トーレスAndrés Segovia Torres)とも関係があり、A.セゴビアがパリ・デビュー後のヨーロッパ・ツアーの協力もしてスペイン(エスパーニャEspaña)のギター奏者とも交流があったようだ。M.マッカフェッリが使用していた9単弦ギターは低音側15f高音側17f接続の非対称響胴なことや24f仕様、低音3列が浮遊弦といった点でモッツァーニ型24f9単弦ギターを踏襲しており、響胴の一部をカットしたというよりは響腕を取り除いた結果坐奏時の膝当てが無くなった為接続部付近の流線型デザインを階段型に変更してスペイン・ギターと融合させた結果生まれた仕様とみられる。M.マッカフェッリ本人は11歳の頃からモッツァーニ型9単弦ギターを一貫して使用しており、またチェントに設立されたL.モッツァーニの学校で楽器製作の手解きも受けていた。

カッタウェイの原型と類似形状。
形状比較のため図案を簡略化した。
火不思(渾不似, 胡撥器, 虎撥器, 琥珀詞, 和必斯Khopuz, Kopuz, Komuz, Kobus, Khobus, Khobis, Khobys, Qubuz, Qabūs)
 一説に中国三絃の元になった楽器とも言われる半皮半板響胴の撥弦楽器。表記が複数存在するのは元々アルタイ語系古突厥語の音訳で方言によって若干音が違うため。トルゴ語でも「弾奏する」という意味があるとの情報があり確認中。

 糸巻は4本あり4弦の楽器とされるが、この絵では2複弦仕様。古来から現代に至るまで使用される類似形状の楽器では糸巻が4本でも3コース4弦や 4単弦仕様等があり、東欧、中央アジア、西アジア、南アジア、中東、北アフリカ等で使用されている2~4コース楽器とも関連しているようだ。 3複弦仕様もあり、他に「7弦」もあるとのことで4コース7弦仕様の可能性もある。

 西方へは9世紀半ばに中央アジアの遊牧民が移動した際に伝播したとも言われる。アラビア半島ではクーブーズ(Qubuz)と呼ばれ、インド洋を経てマダガスカル(Madagascar)にも伝播、カボシ(kabosy, kabaosy, mandoliny)と呼ばれている。古くはミズハール(Mizhar, マズハール)とも呼ばれていた。

 現在のマダガスカル・カボシは箱に桿棹を取り付けたアッラバーブに似た物以外に6単弦ギターを改造したものが使用されている。フランスの統治時代があったことから調弦はモダン・スペインギターの固定音高調弦の影響を受けていると思われるが、フレットが一部取り除かれ全音間隔と半音間隔の混じった指板となっており音律については調査中。しかしカボーシ奏者ジャン・エミリアン(Jean Emilien)は6単弦エレクトリック・ギター改造型を使用しているが弦は5本しか張っていない。理由は不明。

 またアンタナナリヴォ(Antananarivo)出身のカボーシ奏者デガリ(エルネス・ランドゥリアナソルErnest "D'Gary" Randrianasolo)は様々な調弦を使いこなすことで知られている。これは東南アジア由来の竹筒琴ヴァリハ(Valiha)に合わせた調弦ではないかとの推測もあるが、詳細確認中。竹筒琴は竹の筒の周囲に弦を張り巡らし、可動式の駒を立てて調律する楽器。この他ソディナと呼ばれる竹笛も使用される。

マダガスカル・カボシの調弦
C2 D2 E2 F2 G2 A2 B2 D3 F3 G3 A3 B3 C4 D4 E4
Madagascarian
D'Gary I
D'Gary II
D'Gary III
D'Gary IV

 東方では中国で13世紀に(yuán)帝国の宮廷楽器として使用され、モンゴル(Монгол, 蒙古, 莫臥児, Mongol)族によって南部雲南方面にまで伝播、今日でもナシー(nàxī, 納西, 纳西)族がセクトゥ(色古篤Segudu)と呼ばれる同構造の楽器を古楽に使用しているとのこと。15世紀以降(míng)(qīng)両帝国でも北方で流行した。

 響胴上部が木製で清では梨、下部が獣皮製で清では蛇皮。①は12世紀ペルシャの絵画中のもので、撥捩されるアッラバーブとされるが、同形状の楽器は唐代9世紀の古図にも描かれている。桿棹は清では桐製。棹胴接続部の角はチベットの3複弦撥弦楽器ダムニアン(Damuyan, Zhanian, 扎年, 扎木聶, 拝昴, 安姆貢丹, 東布拉, 冬布惹阿)にも見られるが、起源不詳。奏法上、装飾上、構造上、思想上の理由等が考えられる。なおダムニアンは7世紀半ばに婚礼祝典で使用した物がラサに現存しているとのこと。またチベットの仏教寺院正門の四天王像等にもしばしば彫られているという。

撥捩al-Rabāba
①12c. Persia
Guitarra Latina
②13c. Castella
Bona Fide
③14c.前 Köln
Cythara Germanica
④17c.半 西欧
Wappenform
⑤19c.前 Wien
1棹6単弦
Wappenform
⑥19c.前 Wien
1棹9単弦
Wappenform
⑦19c.前 Wien
2棹9単弦
Bogen
⑧19c.前 Wien
延長胴9単弦
F.Schenk
⑨19c.前 Wien
対称延長胴9単弦
L.Mozzani
⑩20c.前 Bologna
対称延長胴9単弦
M.Maccaferri
⑪20c.前 Cento
2棹9単弦
Selmer
⑫20c.前Paris
1棹6単弦
 モッツァーニ型ギター(概形は右表⑩参照)はフィレンツェ(Firenze, Florence)出身のオーボエ(Oboe, オウブワHautbois, ホウボイHoboy)及びギター奏者・ギター教師・弦楽器製作家ルイージ・モッツァーニ(Luigi Mozzani)がモダン・ソプラノ・ヴィオロン製作で知られたウィーン(Wien)の弦楽器製作家フリードリヒ・シェンク(Friedrich Schenck)製作による主弦6列浮遊弦3列の9単弦ギター、リラ=ギターレ(Lyragitarre)(右表⑨参照)の響きに影響を受けて開発したもので、響胴辺部が棹胴接続部で斜めに横切る流線型のデザインを採用しており、24fという音域上スカイギター同様高域の演奏性を重視したものと推測される。L.モッツァーニはドイツに爪弾奏法を齎したギター奏者で、西欧を中心に活動しており、フランス滞在時にはビジャレアル(ビジャ・レアール・デ・ロス・インファンテスVilla Real de los Infantes)出身のピアノ&ギター奏者、フランシスコ・ターレガ(フランシスコ・デ・アシアス・ターレガ・イ・エイクセアFrancisco de Asias Tárrega y Eixea)作曲の「アランブラ宮殿の思い出(Requerdos de la Alhambra)」の被献呈者として知られるイル=ド=フランス地域圏(Île-de-France)パリ行政区出身のマンドリン&ギター奏者アルフレッド・コタン(Alfred Cottin)やF.ターレガの弟子ミゲル・リョベート(ミゲル・ジョベート・ソレスMiguel Llobet Soles)等と交流があった。利用者では他にリグーリア州(Liguria)州都ジェノヴァ出身のハーモニカ&ギター奏者ピエトゥロ・タラッフォ(Pietro Taraffo)がいる。兄のパスクアーレ・タラッフォ(Pasquale Taraffo)はリウト製作家セッティミオ・ガッツォ(Settimio Gazzo)による14単弦ギターを使用していた。

 原形となったF.シェンクのギターでは1838年製9単弦リラ=ギターレに高音側の接続部付近のみが窪んだ非対称デザインも存在しており(右表⑨参照)、現在確認出来た中では最古のカッタウェイ仕様。これは左右を比較すると窪ませた格好になるが、元々紋章型響胴のギター(ワッペンフォルム=ギターレWappenform-guitarre)(右表⑤参照)に第2弦蔵が装備されたティオルバ(Tiorba, テオルブTeorbe, テオルボ, シオーボTheorbo)型9単弦ギター(右表⑥参照)の発展型として、低音弦側の響胴からフレットを持たない棹を伸ばして第2弦蔵に繋がった双棹ギター(右表⑦参照)が生まれたことで結果的に非対称となり、あたかも瓠形ギターの響胴を一部をカットしたかのように映っているだけと思われる。第1弦蔵と一体の第2弦蔵に繋がった双棹設計は20世紀のM.マッカフェッリも採用していたが、最初に現れた19世紀にはこの後副棹そのものも共鳴腕化し(右表⑧参照)、更に主棹を中心線に対称となる形でF.シェンク等が製作した3棹のリラ=ギターレになったと思われる。この対称性を意図したデザインはアルポリール(Harpolyre)やアナクレオン風リラ(Lyre Anacréontique)などが影響している可能性もあるが、詳しくは「Sky VI」参照。

 なお、柊木型(楯型)響胴の有棹撥弦楽器は中世以前から存在しており(右表③参照)、19世紀前半に用いられた物はそれを大型化した形になるが、ウィーン等でそのような形の撥弦楽器が中世から古典期に至るまでも継続的に利用されていたのか、復古主義的もしくは新しいデザインが偶然類似をみただけなのかは調査中。その他三味線(Shamisen)のような長頸小型響胴の楽器はもちろん、短頸棹でも洋梨型(茄子型)響胴や玉葱型(無花果型)響胴では元来フレットが増えても高域が演奏しやすい形状ではある(右表①~④参照)。また瓠形響胴でも接続位置を変更せずに響胴の曲線を撫肩にしたものや扛挙指板(レイズド・フィンガーボードRaised Fingerboard)といった工夫も生まれている。

 扛挙指板はミネソタ州(Minnesota)聖ジョセフ・タウンシップ(St. Joseph Township)出身でニュー・ヨーク(New York)にて活動したギター製作家トーマス・ハンフリー(Thomas Humphrey)が1985年に開発したもので1987年12月8日にアメリカ合衆国(United States of America)で特許が出願され1989年10月17日に認可されている。ただし1984年に撮られたとする写真にも既に写っており、詳細確認中。

 横板の高さが両端で異なり響胴底部から棹胴接続部に向かって表面板が下降して行く。外見上もこの特徴が目に入りやすいが、それだけではなく棹を響胴に対して仰角にしていることが特徴で、従来のギターやモダン・ヴィオロン等とは逆の発想。特許明細では「elevated」と表現されており、「raised fingerfboard」という名称の発端は調査中。これらの結果指板側面の露出部分が多くなる他高音域の弦高も下がり操作性が増しており、また音の立ち上がりが速い、音量が大きいといった効果、独奏以外にも協奏曲や合奏、またマイク乗りがよいことからPA使用時にも向いているとの評価がある。使用弦はダダリオ社(D'Addario)プロアルテ(Pro-Arté)ブランドのハード・テンション推奨とのこと。Th.ハンフリーは、ギターの伝統の中に見た物は進歩であり更なる物を求める奏者の為の変化してきたという事実だと語っており、改良に関しては元々積極的な立場の人物だったようだが、特定の奏者の要求が発端になっているのか、またかつて膝臏夾立式モダン・ヴィオロンチェロを弾いていた経験が影響を及ぼしているのかに関しては調査中。

Raised Fingerboard
 傾斜角度等は製作者や奏者の好みによって異なるが、Th.ハンフリー製では接続部の12fで指板の高さは約20㎜ある。
 ミレニアム(Millenium)というモデル名で商品化され利用者にはA.セゴビアの弟子にあたるアメリカのギター奏者エリオット・フィスク(Eliot Fisk)、LAGQ(ロサンジェルス・ギター・カルテットLOS ANGELS GUITAR QUARTET)のウィリアム・カネンガイザー(William Kanengiser)、ブラジル連邦共和国(República Federativa do Brasil)のギター・デュオ、セルジオ・アサド(Sérgio Assad)&オダイル・アサド(Odair Assad)兄弟や妹のバジ・アサド(Badi Assad)及び元メガデス(MEGADETH)のギター奏者ジェフ・スコット・ヤング(Jeff Scott Young)夫妻、シャロン・イズビン、ロベルト・アウセル、フバート・ケッペル、リカルド・コボ、アダム・ホルソマン等がいる。

 Th.ハンフリー製の6単弦仕様はシャントレルが20fだが7単弦仕様に関しては24fで更にブルドンは指板が低域に拡張された-2f仕様が標準となっており、ニール・アンダーソン(Neal Anderson)や、1988年製をLAGQのジョン・ディアマン(John Dearman)が使用している。また7単弦ギター奏者尾尻雅弘(Masahiro Ŏjiri)も1997年製を使用していた時期がある。ブルドンはA1で、J.ディアマンはたまにG1に落とすことがあると語っている。

 Th.ハンフリー製以外ではデイヴィッド・ラッセル(David Russel)がマティアス・ダマン(Matthias Dammann)製作のギターを1994年から使用しているが、2001年以降使用し始めた新作が扛挙指板となっている。また1998年頃マーティン社(C. F. Martin & Co.)がハンフリー型の廉価版を製作しているとの情報があり詳細確認中。日本でも2002年から河野ギター製作所(Kohno Guitar)の桜井正毅(Masaki Sakurai)が製作を始めて19f6単弦ギターMasaki Sakurai Model Maestro RFとしてラインナップに加えており、2004年からエドゥアルド・フェルナンデス(Eduardo Fernandez)や福田進一(Shin'ichi Fukuda)、2006年からSh.福田の弟子の大萩康司(Yasuji Ō'hagi)等が使用している他、一点物ではE.フィスクやSh.福田の弟子に当たる鈴木大介(Daisuke Suzuki)が2005年から今井勇一(Yūichi Imai)製20f6単弦ギターを、D.鈴木の弟子の村治奏一(Sōichi Muraji)が2007年から中野 潤(Jun Nacano)製の20f6単弦ギターを使用している。

S.村治の中野製ギターは響胴孔が指板両翼に配されているが、これはカタルーニャ州(Catalunya, Cataluña, Catalonha)州都バルセローナ(Barcelona)出身のフランシスコ・シンプリシオ(Francisco Simplicio)が1929年や1930年に製作した6単弦ギター、モダン11単弦アルト・ギターの製作で知られるゴットランド(Gotland)出身の家具職人で後にストックホルム(Stockholm)にてピアノやギターの製作を行ったイェーオリ・ボーリン(ボリーン, Georg Bolin)による24f8単弦ギター、1994年にポール・フィッシャー(Paul Fischer)が製作した6単弦ギターにも見られる。 なおP.フィッシャーは格子状力木配置を採用している。類似の配置はJ.Ch.ウィリアムズや木村 大(Dai Kimura)が使用していることで知られるオーストラリアのギター製作家グレッグ・スモールマン(Greg Smallman)も行なっている。理由は表面板全体が上下に振動することで偏り無く全体に振動が広がる点と捩れに対する復帰力が優れている点とのこと。格子の角度によっても音が変わり、方形になるほど暗い、菱形になるほど明るい音になるという。
 その他台北(Tʻaipei)の葉 登民(Yeh Têng Min, Danny Yeh)やフランツ・ハラス(Franz Halasz)のf字孔仕様24f6単弦ギターがあるが製作者は調査中。スペインのマヌエル・フェルナンデス(Manuel Fernández)製MF23Cやドイツのゲルノット・ワーグナー(Gernot Wagner)製にも採用されている。

 またチェコスロヴァキア社会主義共和国(Ceskoslovenská Socialistická Republika現チェコ共和国Česká republika)出身のギター奏者パヴェル・シュタイドル(Pavel Steidl)が2000年代半ばから使用しているベルンハルト・クレッセ(Bernhard Kresse)製レニャーニ型6単弦ギターも胴上の指板が高いが、元になっているそれ以前に使用していた1830年頃のニコラウス・ゲオルク・リース(Nikolaus Georg Ries)製レニャーニ型6単弦ギターにはそういった仕様が見られず、単純な複製品ではなく仕様変更を行ったものなのか調査中。レニャーニ型ギターを最初に開発したシュタウファー製のギターではフライング・フィンガーボード(Flying fingerboard)と呼ばれる棹及び指板が表面板と接触しない構造で指板が高く出来るものがあることからその再現とも考えられる。これはヴィオロンの構造に近いもので、指板が表面板に接しないことで高音域演奏時響胴上のフレット押弦時に表面板の振動を妨げないようにするといった効果を狙ったところから生まれた物。ただしヴィオロンとは異なり指板単独で表面板上に迫り出しているのではなく、 桿棹も錐状に延長されている。アーチトップ・ギターでも同様の理由で1930年以降に登場したようだが、こちらは指板形状をそのままに1f分ほどはみ出しただけの形になっている。後にエレクトリック・ギターとしてPUが取り付けられる際はこの指板下の空間が有効に機能することとなった。

 逆に胴上の指板で出すような高音の音響は指板と響胴が接することで豊かになるという考えもあり、カッタウェイを採用しない伝統の根拠となっていたようだが、実際にはシングル・カッタウェイ仕様や扛挙指板採用によってこの点で劣るという奏者の一般的な認識は20世紀を終えても蓄積されておらず、音量・音響面での詳細な検証の存在については調査中。

 ところで楽器を斜めに抱えて演奏する斜傾抱撮でのソリッドボディ型エレクトリックギターで量産型に24f仕様が標準採用されたのは、1935年のリッケンバッカー(Rickenbacker)製ヴィブロラ(Vibrola Spanish Guitar)が現状確認の範囲内では最古。これは14f接続のノン・カッタウェイだが、表面板を水平にして几案状に利用する股上横越のためのギターが斜傾抱撮でも弾かれるようになったところから登場したモデル故、小型で表面板上の指板にも十分手が届く物だった。

 木製大型響胴では東京サウンド株式会社が1965年にグヤトーン(Guyatone)ブランドから発表したテルスター(LG-160T Telstar)あたりから見られる。これは日本製で響胴底部には手握孔も開けられており、人工衛星をモチーフに設計されたとのこと。グヤトーンからは同時期に数種類の24f仕様を発表していたようだ。東京サウンドの前身は昭和8(1933)年に松本三男が東京椎名町に設立した松本製作所で、日本初のエレクトリック・ギター開発で知られているが、最初のエレクトリック・ギターは23f6単弦ハワイアン・ギター。グヤトーン以降ではリッケンバッカー製の330360が1969年から21f仕様に代えて導入を開始。ダン・アームストロング(Dan Armstrong)製も同じく1969年にアンペグ(Ampeg)からADAG2を発表し、1971年まで生産された。

 1970年代では1975年発表のB.C.リッチ(B.C.Rich)製シーガル(Seagull)や1976年発表のグレコ(Greco)製MR-800、1976~1979年のエピフォン(Epiphone)製スクロール350(SC-350)、1978年のギルド(Guild)製S-60S-70DS-300S300D("D"はラリー・ディマジオLarry DiMarzio製PU搭載機の意)に確認できる。この他参考情報としてはイギリスのブライアン・メイ(ブライアン・ハロルド・メイBrian Harold May)が1968年頃に24f6単弦ギター、レッドスペシャル(Red Special)の自作を始めている他、1970年代後半のロジャー・グリフィン・カスタム(Roger Griffin Custom)、 アコースティックのアーチトップ・ギターではジョン・ディ・アンジェリコ(John di Angelico)が1951年にフランク・ロウレイ(Frank Rowley?)向けに製作したニュー・ヨーカー(D'Angelico New Yorker Cutaway)、エレクトリック・アコースティック=ギター(Electric Acoustic-Guitar)ではオヴェイション(Ovation)に1976年頃から24仕様が見られる。しかし一般的に広く普及しているというわけではなかったようだ。

 斜傾抱撮用ソリッド・ギターでの音域拡張は1960~70年代においてはフュージョン(Fusion)音楽、1980年代においてはヘヴィ・メタル(Heavy Metal)音楽での技巧難化路線の影響を受けているとみられ、B.C.リッチ製のモッキンバード(Mockingbird)が24仕様を追加、1981年には同社から24f仕様のワーロック(Warlock)モデルも誕生する。1984年になると星野楽器のアイバニーズ(Ibanez)ブランド製品で、1985年にはフェルナンデス(Fernandes)製やポール・リード・スミス(Paul Reed Smith, PRS)製にも登場するなど一般的な状態になっている。なおPRS製ギターがソリッドボディ型ギターの量産モデルで初の24f仕様という記事もあるが、PRSが設立されたのは1985年。ただし工場設立以前には特定奏者向けに既に製作を行っていたようで、1975年のP. R.スミスにとって初めてとなるカーヴド=トップ・ギターは24f6複弦仕様で、アル・ディ・メオラ(Al DiMeola)向けに製作されアルバム『エレガント・ジプシー(ELEGANT GYPCY)』に使用されたとのこと。また量産化直前には試作品として 1982年にソーサラーズ・アプレンティス(Sorcerer's Apprentice)の26f6単弦仕様及び27f6単弦仕様、1983年には同27f6複弦仕様、1984年にも同27f6単弦仕様と26f6単弦サークル・ドラゴン(Cercle Dragon)を製作している。製作した経緯や1985年に実際に量産化されたカスタム24(Custom 24)に引き継がれなかった理由は調査中。

 量産型ソリッド・ギターで「24」というフレット数に固定された理由は現在調査中だが、バンドでのソロ楽器としてエレクトリック・ギターと関連の深い管状吹奏楽器の高音域の影響も考えられる。 参考情報としては作曲家・プロデューサーのジム・スタインマン(James Richard "Jim" Steinman)がオフ・ブロードウェイ・ミュージカル『ネヴァーランド(Neverland)』向けに作曲した「The Formation of the Pack (All Revved up with No Place to Go)」をロック曲に改編し、ダラス(Dallas)出身のロック歌手・俳優ミート・ローフ(マーヴィン・リー・アデイMarvin Lee Aday "Meat Loaf" )が歌った「暴走(All Revved up with No Place to Go)」でサクソフォン&鍵盤奏者エドガー・ウィンター(Edgar Winter)がサクソフォン(Saxophone)でソロをとっており、最高音にE6~F6というギターでの24~25f相当の音を3回使用しているものの、アルバム発表後の演奏会ではバンド、ネヴァーランド・エクスプレス(NEVERLAND EXPRESS)にサクソフォン奏者はおらずギター奏者のブルース・キューリック及びボブ・スカル・キューリックが21~22f仕様のギターを使用していたため原曲通りのソロが演奏会で披露されたことがこれまで確認出来ていないというケースがある。因みに当曲が収録されている1977年発表のアルバム『地獄のロックライダー(BAT OUT OF HELL)』はイギリスで7年半ヒットチャートに掲載されて当時のギネス記録を打ち立てた他、現在までに4300万枚以上を売り上げてマイケル・ジャクソン(Michael Jackson)の『スリラー(THRILLER)』、エイスィ・ディスィ(AC/DC)の『バック・イン・ブラック(BACK IN BLACK)』に次ぐレコードアルバム史上3位、ロックアルバム史上2位に入る記録を残している。但し集計方法によって数百万枚の幅が発生するとみられることから、1億枚以上を売り上げて他を圧倒している『スリラー』を除く上位10番以内は4000万枚上でほぼ同数と考えておく方がよいとも考えられる。

 通常よりフレット数が多い理由がはっきりしているD.アームストロング製に関しては「(リアのみの)1PU仕様だったので場所が空いていたから」とのこと。これは弦長の¼に相当する24f直下にフロントを設置するのが音響上理想とされていることに関係がある。D.アームストロング製アンペグは当時としては珍しい透明アクリル製響胴を採用していたが、元々はバンジョー(Banjo)のサステイン対策や小音化の目的で選定されたもので、透明なのはそれが最も安価だったからとのこと。1968年6~11月にD.アームストロングがニュー・ヨーク郊外の森林に籠って設計した。

 エレクトリック・ベースギターでは5単弦モデルが充実するよりも24f4単弦モデルの広がりの方がやや早いようで、1980年代初頭には市販品が見られようになる。最古は現在確認できた中では1972年にギブソン社が発表したレスポール・トライアンフ・ベース(Gibson Les Paul Triumph Bass)。ただしあくまで「ベース・ギター」でのことで、コントラバス・ヴィオロンではフレットが無いため音域が視覚的に分かり辛いもののフレット数で言えば30f近い。右は楽器を立てて構える直立(Up-right)用エレクトリック・ベースに取り外し可能な1本のナイロン線を通してフレットにした物で31fある。棹胴接続位置は9fで、ヴィオロン等も一般にこの位置で接続される。

 ギターでの27f以上では、リラ・ギターのデザインを流用したダンエレクトロ(Danelectro)製ロングホーン(Long Horn)のモデル4123S「ギターリン」(Model 4123S: Guitarlin)が存在している。31f6単弦でギターにマンドリンの音域を持たせるという発想で作られた。最初に発表されたのは1957年で1969年まで生産される。

 股上横越用ギターでは斜傾抱撮ほど演奏上の困難が伴わないことから歴史は更に古く、ギブソン製ハワイアン・ギターEH-150が29f6単弦で1935年発表と現状確認される木製響胴の量産型ソリッドボディ・ギターとしては最古となっている。ちなみにギター奏者ジョージ・ビーチャム(George D. Beauchamp)が技術者アドルフ・リッケンバッカー(Adolph Rickenbacer)と共に立ち上げたリッケンバッカー社から1931年頃に発表され1950年代まで生産された史上初の量産型ソリッドボディ・エレクトリック・ギター、フライパン(Frying Pan)はノンカッタウェイの12f接続20f6単弦仕様だった。フライパンは弦長が22.5吋(551.25㎜)と25吋(635㎜)の2種類があり、フレット数も1934年6月2日にアメリカで出願され1937年8月10日に認められた特許に添付された資料では24f仕様となっているなど幾つかヴァリエーションが存在しているようだ。この他23f7単弦仕様も1931年に登場しているが、エレクトリックでの7コース・ギターについては「Sky IV」参照。最初のエレクトリック・ギターがハワイアン・ギターで実現された理由としては、G.ビーチャムがハワイアン・ギター奏者だった点やハワイアン音楽ではより大音量を必要としていた点が指摘されている。1890年代から始まったマンドリン・オーケストラ音楽の流行は1920年代にディキシーランド・ジャズ(Dixieland Jazz)音楽の台頭によって終焉を迎えるが、ジャズ音楽では当初ギターより音量の大きなバンジョーが利用されており、斜傾抱撮のギターが主流となったのはエレクトリック・ギターの登場による。1932年にニュー・ヨークでレイディオ・シティ・ミュージカル・ホールが完成しラジオ放送向けの音楽が演奏されたことや、1934年末頃からビッグ・バンド化が始まったことで更なる大音量が必要とされていたことも電子楽器への移行を促したようだ。元々伴奏楽器で、リード楽器としての地位を確保するようになったのはジャズ・ギター奏者チャーリー・クリスチャン(チャールズ・ヘンリー・クリスチャンCharles Henry Christian)以降と言われている。

 そのエレクトリック・ギターの試作品はG.D.ビーチャム以外に1924年にL.ロアが、1929年にストロンバグ・ボイシネット社が、1940年頃にL.ポールが製作している。またシアトル(Seattle)のオーディオヴォックス社(Audiovox)のポール・テュットゥマーク(Paul Tutmarc)が1930年代にフレット付きエレクトリック・ソリッド・ベースやカッタウェイ仕様のエレクリトリック・ソリッド・ギターの試作を行っているとの情報もあり、詳細確認中。

 なお量産型フライパンの響胴はアルミニウム鋳造だが、G.D.ビーチャムが発案しハリー・ワトソン(Harry Watson)が製作した試作1号機は木製。続いて1933年にはN.S.モデル(N.S. Model Hawaiian Guitar)、ダブル・ネック(Double Neck Hawaiian Guitar)、モデルB(Model B Hawaiian Guitar)の3種類のハワイアン・ギターが登場する。N.S.モデルは 9f接続35f6単弦仕様で27fを超えるEx-Fギターとしては最古。当初はボリュームのみ、間もなくトーンコントロールが加わっている。ダブル・ネックは10f接続24f8単弦2棹の16単弦仕様でコントロールはヴォリュームとトーン。そして響胴に圧素レジン素材の合成樹脂(Bakelite)を採用したモデルBは10f接続24fで6単弦仕様のB-6、7単弦仕様のB-7、8単弦仕様のB-8の3種類が発売されている。 こちらも初期はヴォリュームのみ、間もなくトーン・コントロール追加。後にモデルBD(Model BD)と名前が変っている。更に1934年にはNSに似た形状で9f接続36f6単弦1ヴォリュームのモデル59(Model 59 Hwaiian Guitar)が発表されており、3棹や多弦仕様も受注生産を受け付けていた。

 これらの本来の用途は股上横越でのスライド・ギターだが、ホロウ・ボディ型のアーチトップギターよりもハウリング無く大音量が出せることから大編成の合奏では重宝され斜傾抱撮でも弾かれていたようだ。1935年にはこの状況を受けて既述の24f6単弦ギター、ヴィブロラが発売される。外見はモデルBと同様だがハワイアン・ギターとの奏法の違いを考慮して柱状棹(Block Neck)から 弧状棹(Round Neck)に、棹胴接続位置も9fから14fへと変更しており、また「ボーリング球並に重い」ことから、小型アンプより伸びた 支持具に固定して演奏出来るようになっている。1936年にはヴィブロラの4単弦テナー・ギター(Tenor Guitar)仕様も発表された。

 フェンダー社の創立者であるキャリフォーニア州(California, カリフォルニア)フーラトン(Fullerton, フラートン, フーラートン)近郊出身のラジオ修理工、レオ・フェンダー(クラレンス・レオナード・フェンダーClarence Leonard "Leo" Fender)も1944年に初めて製作したギターは20f6単弦ソリッドボディ型ハワイアン・ギター「レイディオ・ショップRadio Shop」で、初の市販品は24f6単弦ソリッド・ボディ型ハワイアン・ギターだった。1946年には6単弦と8単弦両用の単棹ハワイアン・ギターを試作し、1947年にデュアル・エイト(Dual 8)として発表、ノエル・ボッグス(Noel Boggs)が使用していた。1952年にはハム・ノイズ削減効果を意図した二元均衡PU(Dual Counterbalanced Pick-up)や弦長可変下駒(Adjustable bridge)、オクターヴ低くする際に張るベース弦を想定した弦間可変下駒(Adjustable spacing bridge)を採用した弦長22.5吋(571.5㎜)双棹、3棹、4棹仕様のストリングマスター(Stringmaster)を発表、1955年には弦長24.5吋(622.3㎜)としている。

 更に1956年には現在ハワイアン・ギターの代替として主流になっているペダルスティールの試作機、モデル1000(Model 1000)が製作され、スピーディ・ウェスト(ウェズレイ・ウェッブ・ウェストWesley Webb "Speedy" West)が使用した。8単弦2機の双棹仕様でこれはS.ウェスト発案、2番棹の位置が手前に位置する1番棹より高くなった階段状配置はP.ビグスビーの3棹仕様の影響、弦を引っ張って音程を変化させるプリングメカニズムはC. L.フェンダーの発明による。この他調弦時の弦破損防止の為にローラー・サドルが採用された。

19c.前 Trípode
 楽器の安定を目的としてD.アグアドが開発し使用を勧めた架台。「三脚」の意で1843年版はトゥリポーデ(トリポーデ)だが、それより前はトゥリポディソン(Tripódison)。他に レグラマノス(Reglamanos)という名称も記されている。 現代では1970年代にオーストリアのギター奏者エカルト・リント(Ekard Lind)が使用していたとのことで確認中。
20c.半 Stand
 音量増幅の為のアンプ(Amplifier)及びスピーカーキャビネット(Speaker Cabinet)と一体になった架台。 後にフェンダーに関わるドク・コーフマン(Doc Kauffman)の発明によるという。
20c.半 Stand
 双棹9単弦ギター。多弦ギターでは19世紀後半から装飾を凝らした専用の架台等も造られ、調度品としても遜色のない ようになっていた。こういった効果は18世紀後半にハープで始まっており現在も名残がある。
20c.後 Stand
 現代において入手可能な架台。常用よりは複数の楽器を持ち替える奏者や特殊形状の楽器を 固定する際に利用されることが多い。

 スカイギターはストラトキャスターのカッタウェイを一方は大きく、もう一方はばっさりと落としてしまうという発想で立奏を前提としている。最初の案では涙滴形を想定したが、直後に閃いた星雲のイメージを現実的に簡潔な図案として取り込むことにした。そこでデザインの基本コンセプトを「ƒ」という物理波形に置き(「S」の形が銀河の半分の形に見えたとも語っている)、胴上の模様は更にそれを回転させることで生まれる渦状銀河の形をイメージ。演奏意欲を増すためにも視覚的に美しいものにしたかったらしい。デザインが行われたのは1982年12月、2時間で仕上げられたとのこと。

 
Fender Stratocaster 1975; "White Star"
 72年型の棹及び指板を延長した23f仕様のストラトキャスター。PUは出荷時の物で下駒は調弦の狂いを考慮しシェクター製のロック式に、ワーミィ・バー(Whammy Bar, アーム)が市販品ではない独自のものに交換されている*5。『IN TRANCE』から『BEYOND THE ASTRAL SKIES』までのアルバム全てに使用。スカイギター完成以降ライヴで使用されることは殆どなくなったが、現在でもたまに弾くとのこと。2006年12月頃 にはトゥロニカル・パワーチューン(Tronical Powertune)*6を搭載、『UNDER A DARK SKY』でも一部にソロやリズム・パート使用された。 なお23fという仕様は実弟ズィーノ(ヨハン・ロートJochen "Zeno" Roth)にも受け継がれている。右手は改造前。

  Fender Stratocaster 1979
 72年型でエレクトリック・サン(ELECTRIC SUN)時代に使用されたギターの1本。当初は通常の21f仕様だったが後に23f仕様となる。現在は所有していない。改造は2本とも1982年9月~1983年4月頃と推測される。

 スカイギターは現在、世界に試作品が5本と量産型が2~3本しか存在しない。ただし特注で複製を試みた人間は多数おり、また過去に無断で製造したスカイギターを販売した日本のメーカーが4社ほど存在する。主に写真から摸したようだが、3号機エンペラー(詳細は後述)から直に模りした寸法だけはかなり近いものもあったようだ。しかし値段が高価なわりに作りは粗悪だったようで所有者、試奏者からも酷評が多く伝えられる。

 現在は生産されていないようだが稀に中古が市場に出回るようで、目撃例が幾つか報告されている。ちなみにスウェーデン王国(スヴェリKonungariket Sverige)のロック・ギター奏者、イングヴェイ・マルムスティーン(ラルス・ヨハン・ユングヴェ・マルムステンLars Johann Yngve "Yngwie J. Malmsteen" Malmsten (旧姓ランナーベックLannerbäck)) もスカイギターを所有しているが、これは日本製の違法コピーモデルであって本物ではない(量産型スカイをオーダーしたという情報があるが真偽の程は不明)
 ところで、スカイギターを無断で複製した場合著作権に触れることになり、現実に前述の日本製模倣品販売に関しては訴訟という話にまで発展している。個々の訴訟についての判決文を手に入れてないので詳細は不明。実際は通告のみ、もしくは和解で終わった可能性もあるが現在調査中。

 また、この事件がきっかけとなり「スカイギターを作ったものは訴えられる」といった噂がファンの間に浸透、「30f前後のフレット数の多いギターはスカイギターである」といった憶測を呼び、更にフレット数の多いギターは容易に手に入らないといった特殊な状況が嫉妬の対象ともなって自作デザインのギターが熱狂的U.J.ロートファンから攻撃の対象となる事態になったこともあった。


 スカイギターと違法性の問題について簡単に述べると…
 ・「スカイギター」という名称はU.J.ロートが自分のギターに命名したものであって、U.J.ロート所有のギター以外のものは全く関係ありません。この点の誤解はかつてスカイギターを使っていたヘルゲ・エンゲルケ(Helge Engelke)がNCCギターを新たに作ったのですが、一部で「スカイギターという超高音を出すギター」としてNCCギターもひっくるめて曖昧に使われたことが原因と考えられます。実際にフェア・ウォーニングのアルバム評などを行っているホームページ等をのぞきますと、かなりあやふやにされているのが分かることでしょう。

 ・「スカイギターを作ると違法行為になる」といった話だけがやたら広まっていますが、「では、どの法律に違反するのか?」といった具体的な根拠はかなりあやふやにされています。形のない技術や音楽、デザイン、方法などは無体財産と呼ばれその性格によって個々に権利をまもる法律は違います。例えば民法、著作権法、特許法、実用新案法、意匠法、商標法、種苗法、半導体集積回路保護法、不正競争防止法等々。ただ、これらの法律はあくまで生み出した人間の利益を正当に守ってやろう、という発想が根底にあるので他人に利用させないためのものではありません。
 また著作権は何もしなくても権利が発生しますが、特許権等は申請し認められない限りは権利が発生しないのです。更に「権利があるから真似をしたら訴えられる」とも限りません。従って明かに違法と思える物であっても 権利者が了解すれば問題はないですし、また偶然似てしまった場合でも権利者が主張しそれが法的に認められれば違法という扱いになります。
 「ウリは特許をとった」というウワサがありますが、私の調査した範囲では著作権以外の権利は確認できませんでした。調査漏れや申請中のものがあるかもしれないので断言はしませんが、違法行為になるギターというのは見間違う人間が出るようなそっくりなものか、それを意図して作ったような限定されたものであることは確かです。
 尚、特許等の工業所有権は多くて20年、著作権はU.J.ロートの死後70年間権利が保護されます。

※噂だと書いてるにも関わらずまだ誤解する人がいるので更に書きますが、「訴えられたメーカーがあった」という事実があるだけで、「持っている者全員が訴えられる」という話ではありません。この赤字の表現の違いに注意して読んでみてください。販売品購入者については、「違法スカイを買った者を訴えることは無い」とのU.J.ロート本人によるコメントが得られました。また、法律もそこまでは及びません(違法ダウンロードについては改正の話が出ていますが)。ただし同時に心情的には「もう違法スカイを作って欲しくない」とも語っています。

 なお公に確認出来る最新情報としては2008年11月9日の名古屋公演にて

会場でファンからハンドメイドと思われるスカイ・ギターのコピー・モデルをプレゼントされたウリは、「おお、なかなか精巧に作られているではないか」と感激し、大切にドイツへお持ち帰り。

「Spotlight Kids」『BURRN!(2009年2月号94~95頁、バーン・コーポレーション)
と報告されており、その数日後、2008年11月12日の取材で次世代スカイ開発の状況について尋ねられた際に
今やいろんな所で勝手にスカイ・ギターの模造品が作られている上、どれも出来の悪いものばかりだ。だから、ここらでʺ本物ʺを作る絶好のチャンスかもしれない、と考えているのさ。

「YG Special Edition■Interview & Live Gear in Japan」『YOUNG GUITAR(2009年2月号20頁、シンコーミュージック・エンタテインメント)
また同日の使用機材写真撮影に関して
この独自な構造がコピーされないように、ギター裏側写真の掲載は許可されていない。

「The Gutiar」『YMMプレイヤー(2009年2月号240頁、プレイヤー・コーポレーション)

6弦7弦両機で最も注目したいのが、背面にあるトレモロ機構。写真での公開はNGというトップ・シークレットでもあるそれは、・・・

「Interview & The Axis' Gear」『ギターマガジン(2009年2月号101頁、リットーミュージック)
と報告しています。

 これをどう解釈するかという点ですが、「メーカーの製造・販売に対して怒っているのであって、ファンについては怒っていないしサインもしているので問題ない」とする説もありますが、筆者は「ファンを大切にするが故に寛容に振舞っているのであって、メーカーであれ個人であれコピーを許容しているわけではない」と考えています。とはいえ、筆者はU. J.ロートの代理人ではありませんのでこの考えを強要するつもりはありません。最終的な判断については各自でご判断ください。

 なお、U.J.ロート自身は初めて公に披露した1985年当時よりスカイギターに対して特別な想いを持っているという心理的な理由の他に精巧なつくりのため大量生産がきかないという技術的な理由から、公認のコピーモデルを発売する意思はないとしてきたが、2005年に50本限定で販売することを認めた。

 以下、5本のスカイギター及び量産品等について触れていく。

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*1  U.J.ロート自身はスコーピオンズ(SCORPIONS)在籍時代のアルバム『復讐の蠍団 (イン・トランスIN TRANS)』の頃から音域に不満を持っていたというので1975年頃から高音の追加という欲求があったことになる。特にE5音が出したかったようだが21f仕様ではチョーキング(ベンディングBending)を利用してもE5が限界だった。但し当時は通常E調弦だったので実音ではD5が限界ということになる。
 なお、A.ディミトゥリーウに長らくギター製作を依頼していた人物の未確認情報によると、常に塗装剤による害毒に悩まされていたことから現在はギター製作を引退し、ワーシングにある専門学校(Worthing College)で家具のデザインなどを教えているらしいとのことだが、U. J.ロートによれば腰痛が原因で製作を止めたとのこと。
*2  バララーイカの詳細な歴史は未だ分かっていないが、記録に初めて名前が現れたのは1715年のピョートル大帝(ピョートル・アレクセーヴィチ・ロマーノフ1世Пётр Алексеевич Романов I "Вели́кий")による『登録簿』で、各民族が楽器を持って参加する皇帝主催の仮面行列にカルムィク人(Калмыки)に扮装した人々が持っていたと記されている。また1765年頃のドイツ人パラスによる『旅行記』ではカルムィク人の居住地を訪れた際にユニゾンの2単弦撥弦楽器ドームラ(До́мра)を見たことが記されているなど、18世紀後半に入ると徐々に記述が増え始める。農民の日常生活の中で親しまれていた楽器で名称の由来は 「おしゃべりする(バラカティбалакать)」と言われている。

 モダン・バララーイカは 1883年にトゥヴェーリ州(Тверская область, トヴェリТверь)出身のヴァシリー・ヴァシリエーヴィチ・アンドレーエフ(Василий Васильевич Андреев)がマーリイノ村を訪れた際に農奴アンチープが弾いていたガット製フレット全音間隔配置の7f3単弦バララーイカに興味を 示したところから始まったもので、モダン・ソプラノ・ヴィオロンを習っており西欧旅行の際にマンドリンやギターにも触れていた В.В.アンドレーエフは楽器の音に不満があった為改良を始めた。彼の依頼により 1886年にサンクト・ペテルブルク(Санкт Петербург, 1914~1924: ペトゥロラードПетроград, 1924~1991: レニングラードЛенинград)のモダン・ソプラノ・ヴィオロン製作家В.В.イヴァノーフ(В. В. Иванов)が金属製フレット全音間隔配置の5f3単弦仕様を製作、1887年にはф. С. パセールフスキー(ф. С. Пасербский)が金属製フレット半音間隔配置の12f3単弦プリマ・バララーイカ(Балалайка Прима)を製作する。半音フレットの採用によりマンドリンやギターの楽曲演奏が可能になり、また板切れで作られていた楽器をプラタナス(スズカケ, 鈴懸, Platanus)又は砂糖楓(Satōkaede, ハード・メイプルHard Maple, シュガー・メイプル、ブラック・メイプル)製響胴に黒檀(Kokutan, Ebony, カマゴン、ウブンボク烏文木、ウボク烏木、クロキ黒木)製棹とし、弦をギターやモダン・ソプラノ・ヴィオロンの物に変えることで音量が増大、また操作性を考慮して棹長がそれまでの半分に短縮された。続けてピッコロ(Пикколо)、ディスカント(Дискант)、アルト(Альт)、テノール(Тенор)、バス(Бас)、コントラバス(Контрабас)の合奏用同属楽器が製作される。
~Балалайка~
ПримаE4E4A4
СекундаB3B3E4
АльтE3E3A3
БасE2A2D3
КонтрабасE1A1D2
~До́мра~
ПикколоB4E5A5
МалаяE4A4D5
АльтE3A3D4
БасE2A2D3
КонтрабасE1A1D2
 1888年になるとВ.В.アンドレーエフと貴族・富裕層の知人8名によるバララーイカ愛好者サークルが結成 されて都市部の流行音楽、民謡、クラシックを扱ったコンサートを行うと評価を得て アンサンブルが流行し、楽器も粗悪品から高級品まで数多く出回るようになる。
 1896年には後に「バララーイカのストラディヴァリウス」と称されるようになる マーリイノ村の家具職人С.И.ナリーモフ(С.И.Налимов)が、中音域のセクンダ(Балалайка Секунда)を製作。バララーイカ・オーケストラの編成が行われ各楽器の調弦も設定された。 この際ピッコロ、ディスカント、テノールのバララーイカ3種はドームラが旋律楽器として導入されたことにより消滅している。調弦はロシア農民の楽器に多かった4度調弦が導入された。残ったバララーイカのうちプリマは独奏としても利用されるが、セクンダ、アルト、バス、コントラバスはアンサンブルやオーケストラの 中でのみ利用されることから伴奏バララーイカと呼ばれる。 奏法はビウエラ(Vihuela)でのデディーリョ(Dedillo)に相当する人差し指で往復指扱(オルタネイト・ピッキングAlternate Picking)を行うブリャツァーニエ(Бряцание)、親指で下方指扱(ダウン・ストロークDown Stroke)を行うシチポーク、ギターでの掻弦(ラスゲアードRasuguead)奏法にあたるドローピ、リウトでのフィゲタ(Figueta)やビウエラでのドス・デドス(Dos Dedos)奏法に当たる親指と人差し指を交互指扱するギター奏法(後にダブル・ピッツィカート奏法と呼ばれるようになり、ギター奏法は別の用語となる)や、トレモロ奏法など。
 ドームラは伝説上の楽器ドムラーを語源とするが楽器自体はバララーイカの一種で、1896年にВ.В.アンドレーエフのサークル仲間がヴァトカ県から持ち帰った際響胴形状が異なったことから В.В.アンドレーエフが勘違い、ドムラー復元のつもりでС.И.ナリーモフに製作させ これをドームラとし、合奏用の同属楽器も生んでいる。奏法は当時マンドリンが流行していたことから プレクトルムを使ったトレモロが採用されたが、後にБ.С.トロヤノーフスキーがダブル・ピッツィカート奏法を導入し無伴奏独奏楽器化、1920年代以降はピアノ伴奏を伴った独奏へも発展している。 合奏では バララーイカを伴奏に旋律楽器の役割を持ち、これに撥弦楽器グースリ(Гусли)の改良型を 加えて大ロシア・オーケストラを編成する。 調弦は4度だが1909年にС.ф.ブーロフが3単弦ドームラを改良した5度調弦4単弦ドームラを 大小5種類製作、弦楽を編曲せずに弾けるオーケストラを生み出している。
 こうして19世紀末以降バララーイカは農村での本来の使われ方から独立した道を歩み始め、現在に至る。 なお、バララーイカでの27f仕様はオーケストラ結成時、交響楽団を参考に行われた音域拡大 で生まれたと思われる。
*3  ギターの響きを好み、旅行中いつも持ち歩いていたというN.パガニーニは、ラコート製6単弦ギターの初期モデルの模倣であるジャン=ニコラ・グロベール(Jean-Nicolas Grobert)製ギターを1830年頃使用していた。このグロベール製ギターはフランスロマン派音楽の先駆的作曲家ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz)が所有していたことでも知られる。N.パガニーニはギター奏者との共演も行なっており、1834年にはブリュッセル(Bruxelles)でツァニ・デ・フェランティ(マルコ・アウレリオ・ツァーニ・デ・フェランティMarco Aurelio Zani de Ferranti)と、1837年には生涯最後となった公開演奏を楽旅仲間と言われているテノール歌手、弦楽器奏者&作曲家でもあった教皇領(Stato della Chiesa)フェッラーラ(Ferrara)出身の8単弦ギター奏者ルイジ・レニャーニ(ルイージ・リナルド・レニャーニLuigi Rinaldo Legnani)と共に北イタリアで行なったとされている。

 また当時の7単弦ギター奏者としてはバルセローナ出身の作曲家・声楽家&ギター奏者フェルナンド・ソル (ホセ・フェルナンド・マカルリオ(マルカーリオ?)・ソル"Fernando Sor" José Fernando Macarurio(Marcario?) Sors)の弟子に当たるフランシュ=コンテ地域圏(Franche Comté)出身のナポレオン・コスト(クロード・アントワン・ジャン・ジョルジュ・ナポレオン・コストClaude Antoine Jeane George Napoléon Coste)やF.ソルとも親交のあったロシアのギター奏者ウラジーミル・モルコフ(ウラジーミル・イヴァノヴィチ・モルコフВладимир Иванович Морков)、グラナダのムルシアーノ(フランシスコ・ロドリーゲスFrancisco "el Murciano" Rodoriguez)等がいた他、F.ソルやプッリャ州(Puglia)ビシェーリエ(Bisceglie)出身のモダン・ソプラノ・ヴィオロン&ロマンティック・ギター奏者マウロ・ジュリアーニ(マウロ・ジュゼッペ・セルジオ・パンターレオ・ジュリアーニMauro Giuseppe Sergio Pantaleo Giuliani)も7単弦ギターを利用した経験はあるようだ。F.ソルが 1810年代にラコート製7単弦ギターを入手したという情報があるものの詳細不明。またその後7単弦ギターを常用していたという情報も無いが、6列目をD2に設定した楽曲は多く残されている。これがスペイン系7単弦奏者からの影響なのか、またN.コストにどの程度影響を与えたかは調査中。 F.ソルの家系は元々フランス系の移民で、本人はナポレオン戦争の際コルドバ義勇軍に志願してフランス軍と戦ったが、政局を歌った歌曲が政府批判と解釈されてスペインを出、パリを拠点にすることになった。現在ではギターの作曲家という位置付けだが、 当時はギター奏者・作曲家としてだけでなく声楽家として、またピアノ曲やモダン・ソプラノ・ヴィオロン協奏曲、オペラ、バレエ曲等も扱う総合作曲家として活動しており、ボレロの弾き語りや舞踊に対する評価もある。彼の作曲したバレエ「シンデレラ(Cinderella)」は当時パリでのロングラン記録を塗り替えた他、1826年にはロシア帝国ロマーノフ朝第14代アレクサンドル1世(Александр I )の葬儀の際に葬送行進曲(Marche funèbre)を委嘱されている。

A1 B1 C2 D2 E2 F2 G2 A2 B2 C3 D3 E3 F3 G3 A3 B3 C4 D4 E4 F4 A4
Gregory
Beauchamp
Breau
Mézangeau
Coste
von Held
Gilbert
A1 B1 C2 D2 E2 F2 G2 A2 B2 C3 D3 E3 F3 G3 A3 B3 C4 D4 E4 F4 A4
Borland
Latin
Roth
Tárrega
Hauser
Van Eps
KOЯN
Rensch 不明
A1 B1 C2 D2 E2 F2 G2 A2 B2 C3 D3 E3 F3 G3 A3 B3 C4 D4 E4 F4 A4
 ロシアでは18世紀末からD2を加えた7単弦ギターが使われており、 最初期にはドゥミトゥリー・フェドロヴィチ・クシェノフ=ドゥミトゥレフスキー(Дмитрий Федорович Кушенов-Дмитревский)が教則本を記して普及に貢献しているが、特に影響力が大きかったのは『理論と実践 7弦ギター教本(Теоретическя и Практическя Школа для Семиструнной Гитары)』を書いたロシア帝国(Российская империя)領ヴィルノ(Вирно、現リトアニア共和国Lietuvos RespublikaヴィルニウスVilnius)出身の貴族アンドレイ・シハラ(アンドレイ・オシローヴィチ・シハラАндрей Осипович Сихра, アンドレイ・シフラ)で、官僚・ロシア軍将校シマン・アクセーノフ(シマン・ニコライヴィチ・アクセーノフСемен Николаевич Аксенов)、ロシア軍将校ニコライ・イヴァノヴィチ・アレクサーンドロフ(Николай Иванович Алекса́ндров)、ヴァシリー・サレンコ(ヴァシリー・ステパノーヴィチ・サレンコВасилий Степанович Саренко)、ヴァシリー・イヴァノヴィチ・スヴィンツォフ(Василий Иванович Свинцов)、フョードル・ミハイロヴィチ・ツィメルマン(Федор Михайлович Циммерман)、パヴェル・デドセヴィチ・ペドシュイン(Павел Дедосевич Педошин)といった多くの弟子を抱えて7単弦奏者が拡大した。 19世紀中にはロシア全土に広まり、放浪音楽家にも好まれて使われていたようだ。現在でも東欧で7単弦ギターを演奏する放浪音楽家がいる。

 А.シハラ門下のうちN.アレクサーンドロフはフランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert)の作品を7単弦ギター用に編曲、またС.アクセーノフはロシアのギターに7列目及びG調弦を導入したとされるトゥジェベコヴィチェ(Třebechovice現チェコ共和国トゥジェベコヴィチェ・ポドレベムTřebechovice pod Orebem, 旧ホーヘンブルックHohenbruck)出身のイグナーツ・フォン・ヘルト(Ignatz von Held, イグナツィ・ヘルドIgnacy Held)が1798年にペテルブルクで発表した教則本『7弦ギターの簡単な独習法(Méthode facile pour apprendre à pincer la guitare à sept cordes sans maître)』を再編し1819年に出版している他、イタリア出身で北欧やロシアで活動していたギター&ピアノ教師、劇場休憩音楽奏者ピエトゥロ・ペットレッティ(Pietro Pettoletti)もА.シハラの影響で7単弦ギター作品を書いているとのこと。ロシア・ギターの作曲家として知られるが、残された作品から標準調弦の多弦ギターも使用していたという分析がある。

 1864年にはギター奏者ミハイル・ティモフェーヴィチ・ヴィソツキー(Михаил Тимофеевич Высотский)の弟子で詩人・民謡収集家・戯曲家・ギター奏者ミハイル・アレクサンドゥローヴィチ・スタコーヴィチ(Михаил Александрович Стахович)が編集委員をしていた雑誌『モスクワ人(Москвитянин)』(1854)及び『和音(アコードАккорд)』(1864)に寄せた記事を『7弦ギターの歴史について(Смес Охерк История Семиструнной Гитары)』として出版している。

 一方でリャザン州(Рязанская область)スパスキー(Спасский)出身のピョートル・スピリドノヴィチ・アガフォシン(Петр Спиридонович Агафошин)のように始め7単弦奏者で後に6単弦奏者に転向した者おり、19世紀後半ではF.シェンクの息子で歌手&ギター奏者のヨハン・デッカー=シェンク(Johann Decker-Schenk, イワン・フョードロヴィチ・デッカー=シェンクИван Фёдорович Деккер-Шенк)が、20世紀初頭ではシチリア特別自治州(Regione Sicilia)州都パレルモ(Palermo)出身のギター奏者・作曲家アントーニオ・ドミニチ(Antonio Dominici)が渡露したこと、A.セゴビアが1930年代にはモスクワで演奏会を行なったことの影響で6単弦ギターに転向する者も少なからずいた。ただしJ.デッカー=シェンクは7単弦ギター向けの教則本も書いており、門下ではザピアトフスク出身でサンクト・ペテルブルク軍楽学校教授のヴァシリー・ピョートロヴィチ・レベデフ(Василий Петорвич Лебедев)も6単弦及び7単弦ギター教則本をライプツィヒで出版、10単弦ギター用にはロシア民謡を50曲余り編曲したという。

 19世紀末~20世紀前半の7単弦ギター奏者としてはトムスク音楽学校でシベリア地方初のギター科主任となったアルセニイ・ウラジミロヴィチ・ポポフ(Арсений Владимирович Поров)、民俗楽器合奏団指揮者・ギター奏者のピョートル・イヴァノヴィチ・イサコフ(Петр Иванович Исаков)、既述のJ. ブリームの師B. ペロット、モスクワ出身のギター教師・奏者・作曲家で1948年にВ. М.ユリサフと『ロシアの7弦ギター』を共同執筆したミハイル・イヴァーノフ(Михаил Иванов)、オレンブルク出身でアコード誌の執筆者も務めた鉱山技師・総合技術教授ウラジーミル・パヴロヴィチ・マシュケヴィチ(Владимир Павлович Машкевич)、モスクワのレフ・アレクサンドゥロヴィチ・メンロ(Лев Александрович Менро)など。モスクワ出身で雑誌『ギタリスタ(Гитариста)』を創刊したА.ソコロフ門下のヴァレリアン・ルサノフ(Валериан А. Русанов)は主弦7列ドローン弦4列24f11弦双棹ギターを使用している。

 なおロシア・ギターは一般に「7弦ギター」と表記されるが 実際は主弦7列7単弦ギターの他に主弦6列浮遊弦3列または主弦7列浮遊弦2列の9単弦ギターや主弦6列浮遊弦5列の11単弦ギター等も多く使用されている。19世紀独墺でのバス・ギターレンの影響と思われるが、А.シハラがハープの表現をギターに取り込んでいた点も影響している可能性がある。А.シハラは元々ハープ奏者で、後に6単弦ギター、更に7単弦ギターへと転向した。理由はハープが高価で所有者が限られ生徒がつかない一方ギターは比較的安価で民衆にも広まっていったという経済的理由説とギターを非常に好んでいたという愛情説があるものの詳細不明とのこと。ハープの影響として4本指によるクロスストリング・トリル、音階的進行及び速い楽句でのスラーの多用、弾弦の運指指定、高音弦の長大なグリッサンド、複雑な装飾、カンパネッラ奏法等が指摘されているが、6単弦ギターやバロック・ギターの奏法にも全く無い訳ではないので調査中。

 А.シハラはロシアの作曲家ミハイル・イヴァノヴィチ・グリンカ(ミハイール・イヴァーナヴィチュ・グリーンカМихаил Иванович Глинка)とも親交があり、彼の助言で「皇帝に捧げた命(Жизнь за царя)」や「ルスランとリュドミーラ(Руслан и Людмила)」のギター二重奏編曲を行なっている。М. И.グリンカ作曲の歌劇「皇帝に捧げた命」でイワン・スサーニン役を、歌劇「ルスランとリュドミラ」でルスラン役を、サンクト・ペテルブルク出身の作曲家モデスト・ムソルグスキー(モデースト・ペトゥローヴィチ・ムーソルグスキーМоде́ст Петро́вич Му́соргский)がボリース・ピョードロヴィチ・ゴドゥノーフ(Бори́с Фёдорович Годуно́в)をモデルにした歌劇「ボリース・ゴドゥノーフ(Бори́с Годуно́в, ボリス・ゴドノフ)」でヴァルラーム(Варлаам, Varlaam)役を、ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフ(Николай Андреевич Римский-Корсаков)作曲の歌劇「プスコフの娘(Псковитянка, The Maid of Pskov)」でイワン(ワリ・イワン・ヴァシリエヴィチ・グロジュニンЦарь Иван Васильевич Грозный, Ivan the Terrible)役を、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Пётр Ильич Чайковский)作曲の歌劇「マゼッパ(Мазепа)」でコチュベイ(Кочубей)役を演じたバス歌手のオシプ・アファナシェヴィチ・ピョートゥロフはА.シハラからギターの手解きを受けている。

 この他А.シハラと他の作曲との関連では、ヴァレリアン・ルサモフ(Валериан Русамов)が作成した教本にA.シハラが1817年に作曲した「4つの演奏会用練習曲 第2番」が収録され、П. И.チャイコフスキーが同曲を賞賛していたのを直接聞いたとしているが詳細不明。また歌劇「スペードの女王(Пиковая дама)」の「愛の主題」序奏部分モルト・エスプレシーヴォに似た部分があるとの指摘も存在するが、確認中。その他、変奏付きロシアの歌「野原には一本の小道も無い(Русская Песня с вариациами, Не Одна во Поле Дороженька Пролегалй)」を作曲しているが、同民謡はアレクサンドル・ボロディン(アレクサーンドゥル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディーンАлекса́ндр Порфи́рьевич Бороди́н)も「中央アジアの平原にて」で用いている。 このような民謡に絡んだものは抒情詩のフレージングが基盤なので小節線を跨いだ変則的な楽句になることも多く、外国人が演奏する際は区切りやアクセントの位置を間違えやすいとのこと。

 なお19世紀神聖ローマ帝国オーストリア公領ガリーツィエン(Galizien)(現ポーランド共和国Rzeczpospolita Polska領)クラクフ(Kraków)出身のギター奏者ヤン・ネポムツェン・ボブロヴィチ(Jan Nepomucen Bobrowicz)の使用ギターについては確認中。 現代では6単弦ギター用に編曲されていることや出身地は19世紀前半にロシア帝国領になったこともあるので、ロシアまたはウィーン系の多弦ギター奏者の可能性がある。彼は官僚・軍人・出版社社長でギター奏者としてはM.ジュリアーニの弟子にあたり、N.パガニーニやカロル・リピンスキ(Karol Lipinski)といったモダン・ソプラノ・ヴィオロン奏者、ロベルト・シューマン(Robert Schumann)夫人として知られるクララ・ヨゼフィーネ・ヴィーク=シューマン(Clara Josephine Wieck-Schumann)といったピアノ奏者と共演経験がある。ドボルヤーン(Doborján)出身の作曲家&鍵盤奏者フランツ・リスト(リスト・フェレンツLiszt Ferenc)はJ. N.ボブロヴィチのことを「ギターのショパン」と評したと言われている。

 F.リストは19世紀半ばにヨーロッパで人気だったピアノ奏者・作曲家で、コンサートホールにおける単独公演を行なった初めての奏者とされている。1840年6月9日、ロンドンのハノーヴァー・スクウェア・ルームズでのことで、それ以前は賛助出演者を伴って独奏、独唱、室内楽等から成る演奏会が主流だった。ちなみに交響楽のみの演奏会はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(GEWANDHAUSORCHESTER LEIPZIG)が最初とのことで確認中。元々はオペラ開始前の前奏や遅刻者を待つ為の余興として演奏されていたという。 この他F.リストは弟子を多く持ち、現在まで続くピアノ演奏の多くの流派や運指法の源流になっている。

 F.リストまた交響詩(Symphonic Poem)という主として単一楽章から成る交響楽団向け標題音楽(Program music)の一種を創始したことでも知られる。標題音楽は純粋に音楽的な楽曲構築を行なう絶対音楽(Absolute music)に対して文学や絵画、風景等を念頭に音楽を構築するもので、手法自体はそれ以前からも存在していた。

 「ショパン」はジェラゾヴァ・ヴォラ(Żelazowa Wola)出身の作曲家&鍵盤奏者フレデリック・フランソワ・ショパン(フリデリク・フランチシェク・ショペンFryderyk Franciszek Szopen, Frederic François Chopin)のことで、当時フランスを中心に活動した人気ピアノ奏者の1人。弟子も持っていたが、彼の流派は継承されていないようだ。F. F. ショパンの運指法は従来の思想の延長にあるもので、各指の構造が異なることを考慮して音色や運指を配分し手首を柔軟に使用する他、音を繋げて歌うように弾くには同じ指を連続して用いるという立場をとっている。

 一方現代運指法はL.v.ベートーヴェンの弟子で、F.リストの師でもあるピアノ奏者&作曲家カール・ツェルニー(Carl Czerny, チェルニーČerny)が推進した概念を母体としており、F.リストの人気と教授活動によって広く普及、現代ではF. F.ショパン作品も現代運指法で演奏するのが通常となっている。これは訓練によって5本の指を全て均等に扱えるようにするもので、変え指によって手首の移動を少なくするという特徴がある。 現代運指法の発案者自体は不明のようだが、背景にはピアノの鍵盤機構がシングル・エスケイプメント・アクションからダブル・エスケイプメント・アクションへ変わり、打鍵時の抵抗が強くなったこと等が関係しているとの指摘がある。

 「ギターのショパン」という評価は金属弦に小さなゴム玉を通した楽器を使用したモダン・スペイン・ギター奏者でレコード録音を行なった初のギター奏者と言われているパラグアイ共和国(República del Paraguay)のサン・ファン・バウティスタ・デ・ラス・ミシオーネス(San Juan Bautista de las Misiones)出身のギター奏者アグスティン・バリオス・マンゴレ(アグスティン・ピーオ・バリオス・フェレイラAgustín Pio Barrios Ferreyra "Nitsuga Mangoré")にも当てられることがあるが、これは20世紀後半にJ. Ch.ウィリアムズが名付けた。そのJ. Ch.ウィリアムズは若い頃「王子」、後に「王者」とあだ名されているが、発端は調査中。19世紀では音量と技巧に定評があったバルセローナ出身のハイメ・ボスク(Jaime Bosch, パリ移住後ジャック・ボシュJacques Bosch)が「王者」と呼ばれていたようだ。彼は教会音楽&歌劇作曲家シャルル・フランソワ・グノー(Charles François Gounod)と親しかった他、画家のエドゥアル・マネ(Édouard Manet)が肖像を残しているとのことで確認中。 他にエレクトリック・ギターではY. J.マルムスティーンが一部で「王者」と評されている。なおA.バリオスが弦にゴム玉を通したのは金属弦の響きを和らげる為で、イタリアの指揮者グイド・マリヌッツィ(Guido Marinuzzi)が友人の行なっている方法としてA.バリオスに紹介したのがきっかけという。

 日本でのロシア・ギターについては1917年のロシア革命時に亡命し函館(Hakodate)に居住したロシア人がギターを演奏して秋山富雄(Tomio Akiyama)等に影響与えたという情報があるが、そこで演奏されていたのが7単弦ギターまたはその延長の多弦ギターなのか、6単弦ギターなのかは現在調査中。

 スペインでは当時のギター奏法を理論的・体系的に纏め上げてF.ソルやマドリー(マドリード, マドリッドMadrid)出身のギター奏者・作曲家・古字学者(※根拠不明との指摘有り)ディオニシオ・アグアド(ディオニシオ・アグアド・イ・ガルシアDionisio Aguado y García)の教本作成に影響を与えたナポリ出身のスペイン軍将校フェデリコ・モレッティ(Federico Moretti)が 1799年にマドリーで出版した教則本『6弦ギターの演奏原理(Principios Para Tocar la Guitarra de Seis Órdenes)』第2版の序文で、当該教本を6複弦または6単弦ギター向けとしながらも自身は7単弦ギター(La Guitarra de Siete Órdenes Sencillos)を使用していると記しており、教本そのものは初版が1792年、ナポリで出版された物のスペイン語版であることから、南欧でも18世紀末には既に利用され始めていたようだ。初版は5コース・ギター向けで、この頃イタリアでは6コース・ギターは知られていなかったと述べているが、これがナポリ等南イタリアでの状況なのかイタリア全体での状況なのかは確認中。北イタリアのフランス側では6単弦リラ・ギターが広まり始めていた可能性がある。なお教則本はその後1804年にナポリでの第3版が出されるがこれは第2版のイタリア語版で6コース・ギター向けとなっている。更にスペイン語版での第2版に当る第4版が1824年に出版された。楽器は15f仕様が想定されているが、指板を1~5f、6~10f、11~15fの3ポジションに分け、高域も多用している。

 スペインではF.モレッティやD.アグアド、聖イグレシア大聖堂音楽教授・劇音楽及びソプラノ・ヴィオロン曲作曲家フェルナンド・フェランディエーレ(Fernando Ferandière)、マドリー出身のフランシスコ・トスタード・イ・カルヴァハル(Francisco Tostado y Carvajal)、フランシスコ・ゴヤ(Francisco Goya)の連作戯画『狂想曲(Los Caprichos)』第38番「万歳!(Brabisimo!)」でギターを弾く猿として描かれた宰相マヌエル・ゴドイ(Manuel Godoy)等の師に当たるギター&王室オルガン奏者でシトー会派(Sacer Ordo Cisterciensis)マドリー修道院のオルガン奏者も務めていたバシリオ司祭(ミゲル・ガルシーア"Padre Basilio" Miguel García)が7コースギターの一派を形成していたとエミリオ・プジョール(エミリオ・プジョール・ビラールビEmilio Pujol Vilarrubi)は記している。バシリオは一方で6コース・ギターを導入した最初期の人物で、6列目を追加した人物と7列目を追加した人物が共にこのバシリオ神父であるとする記事もあるが、イタリアでは6単弦ギターがそれ以前に存在していたようで、スペインにおける6コース・ギターの先駆者となるかも知れない。7コース・ギターも1760年前後には存在していたようで、奏者としてはバシリオ神父が現状最古。ボルボン朝第6代カルロス4世(Carlos de Borbón IV)の御前演奏で好評を得、王后マリア・ルイサのギター教師を務めることになった。また第9代イサベル2世(Isabel de Borbón II)がギターを好んでおり、アントニオ・カーノ(アントニオ・カーノ=クーリエラAntonio Cano-Curriela)及びフェデリコ・カーノ(Federico Cano)父子やトリニタリオ・ウエルタ(Trinitanio Huerta)も御前演奏を行なっている。

 またムルシアーノが「グラン・ロンデーニャ ホ短調(Gran Rondeña Mi menor)」を演奏するために製作された7弦ギターがグラナダ・ギターで初の7コース・ギターという。19世紀に入ってからのことなので7単弦ギターの可能性が高く、またМ. И.グリンカは1845~46年にグラナダで滞在した際、ムルシアーノの演奏を聴いて感銘を受けたという。ただ生没年情報に1795-1845と1798-1848があり、同名の混同や真偽等確認中。

 なおバシリオの楽曲や演奏については聖歌に酷似していた、2重奏曲が多い、8度と10度の和音を常用していた、単音や音階の速弾きを得意としていたといった評価があり、それらが7単弦ギター使用の理由と関係している可能性もあるが詳細不明で調査中。 ギターで弾いたファンダンゴ(Fandango)に関してはルイージ・ボッケリーニ(Luigi Boccherini)が「ギターと弦楽四重奏のための五重奏曲第4番 ニ長調 G.448 (Quintetto Nr. 4 in re maggiore G.448 "Fandango" per Chitarra e Quartetto d'archi)」に取り入れて模倣した。L.ボッケリーニはギター愛好家だったオスーナ侯爵ベナベンテ(Benavente, Marquis de Osuna)の庇護下にあったことからギターと弦楽の為の室内楽を12曲残しており、有名作曲家によるギターを含んだ最初の室内楽と言われている。後にパリで出版された際はギター・パートがモダン・アルト・ヴィオロン(Alto Violon)に代えられた。

名称 G1 A1 C2 D2 E2 G2 A2 C3 D3 E3 F3 G3 A3 B3 C4 D4 E4 F4 G4 A4D5
Viola de Amore
Viola da Mano
Vihuela de Mano
Renaissance Lute
Viola de Terceira 不定~
Basse de Viole
English Bandora
G1 A1 C2 D2 E2 G2 A2 C3 D3 E3 F3 G3 A3 B3 C4 D4 E4 F4 G4 A4D5
 リウトでは16世紀前半より7コース楽器も広く使われていたことから、イタリアにおける7コース・ギターの歴史は更に遡る可能性もある。その点につき、1555年にオスーナ(Osuna)で出版されたエシハ(Écija)出身のフランシスコ会派(Fransiscan Order)修道僧ファン・ベルムード(Juan Bermudo)による『楽器詳解(El Libro Llamado Declaración de Instrumentos Musicales)』には、リウト音楽演奏用の大型高級ギターとみられる6複弦撥弦楽器ビウエラ・デ・マーノ(Vihuela de Mano)の7複弦仕様(Vihuela de Heptè Ordenes)が調弦と共に図示されている他、16世紀の写本『ヴィオラの手引き(La Mano a la Viola)』にもヴィオラ・ダ・マーノ(Viola da Mano)と呼ばれる7コース指扱撥弦楽器の指位譜(タブラチュア, タブ譜Tablature)が掲載されており、これらを直ちに現在のギターと直結させることは出来ないがギター成立の早い段階から周囲に7コース楽器が存在していたことを示していると言える。

 19世紀末以降、F.ターレガと弟子のM.リョベートやE.プジョール、カステジョン・デ・ラ・プラーナ(Castellón de la Plana)出身でクラリネット(Clarinet)やピアノ、モダン・ソプラノ・ヴィオロン、バンドゥーリア(Bandurria)もこなしたダニエル・フォルテア(ダニエル・フォルテア・ギメアDaniel Fortea Guimeá)、アルベルト・オブレゴーン(Alberto Obregón)、ドミンゴ・プラト(Domingo Prato)等の影響でターレガ流爪弾奏法及び大型のトーレス型6単弦アンダルシーア(Andalusia)・コンサート・ギターが各地に広がった。最初に広まったのはスペイン本国よりF.ターレガの人気が高かったブエノス・アイレス(Buenos Aires)という。

 このギターはF.ターレガの師の一人で、D.アグアドの弟子ホセ・アセンシオの教えを受けたマリア(Maria)出身の穀類販売商・ギター奏者フリアン・アルカス(フリアン・ガビーノ・アルカス・ラカールJulián Gabino Arcas Lacal)とサン・セバスティアン(San Sebastian)出身の陶器商・ギター製作家アントニオ・トーレス(アントニオ・デ・トーレス・フラードAntonio de Torres Jurado)が開発したもので、扇状力木配置(Fan Bracing)を継承している。J.アルカスはフラメンコ音楽をホールでの演奏会形式で取り上げた先駆者で、A.トーレスの1867年製18f6単弦「牡獅子(ラ・レオーナLa Leona)」を愛器とした。

 扇状力木配置はA.トーレスの発明と書かれることもあるが、遅くとも18世紀中頃にアンダルシーア・ギターで生まれていた物で、現存最古はセビージャ(Sevillia)のフランシスコ・サンギーノ(Francisco Sanguino)による1759年製。他ファン・パヘース(Juan Pagés)及び息子のホセ・パヘース製(José Pagés)、後にキューバへ渡ったフランシスコ・パヘース(Francisco Pagés)製、ホセ・ベネディード(José Benedid)製、イグナシオ・デ・ロス・サントス(Ignacio de los Santos)製等に既に見られるとのこと。18世紀末~19世紀初頭のアンダルシーアでは、カーディスが貿易港として栄えてギター製作も盛んに行なわれ、その後マラガに中心が移ったとのこと。またマドリー等のカスティーリャ・ギターやバルセローナ等のカタルーニャ・ギターでは1800年以降に扇状力木配置が広まったと考えられている。

 音量確保目的での大型化や薄化で生じる強度不足を補うためにヴィオロンに比して多数の力木を使用するが、結果的に表板の振動を阻害する要因となり、科学的測定においてはモダン・ソプラノ・ヴィオロンに比べて木材の違いによる影響が殆ど反映されないという結果が生じている他、運用面では長期間の使用で歪みや捩れが生じて振動する箇所にばらつきが出るという弊害が指摘されている。ギターの寿命は数十年と言われるのも打楽器的奏法が用いられる以外にこのような要因が関連していると思われるが、あくまでスペイン・ギターでの話で、ソプラノ・ヴィオロンと同じような簡素な力木配置及び分解容易な構造を導入したウィーン・ギター等他地域のギターでは比較的修理がしやすく長期間の使用が可能となっているようだ。

 トーレス型コンサート・スペイン・ギターはA.トーレス存命中からスペイン国内で多く模倣され、20世紀以降は特にA.セゴビアの人気によって世界的な隆盛が決定的なものとなった一方で、7コース・ギターを含むヨーロッパ各地のギターは姿を消していった。これらはクラシック・ギター(クラシカル・ギターClassical Guitar)の代名詞になったトーレス型コンサート・スペイン・ギターとは区別され古楽器・民俗楽器という形で紹介・演奏されることが多いが、完全に絶滅したわけではなく現在でも土地固有の音楽と共に使用され、アメリカ大陸に伝えられた楽器も現地の音楽と結びついて重要な役割を果たしている。

 なお、F.ターレガ自身は生涯19f6単弦ギターや20f6単弦ギターを使い続けたが、これは当時のスペイン・ギターとしてはフレットが多い方で、楽曲も高域の使用がみられる。20f仕様はシウダード・レアル(Ciudad Real)のギター製作家ビセンテ・アリアス(Vicente Arias)が製作していた。

 また所有していたギターの1本はシャントレルのE4弦を取り除きブルドンにB1弦を追加したバリトン・ギター(「Sky II参照」)的な仕様にしている。これは1903年頃、F.ターレガ不在中に代講を務めていた実弟でソプラノ・ヴィオロン奏者のビセンテ・ターレガ(ビセンテ・ターレガ・イ・エイクセアVicente Tárrega y Eixea)が弟子のオレガリオ・エスコラーノ(Olegario Escolano)とE.プジョールへの学習課題として編曲したルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(ルートヴィヒ・ファーン・ベートファンLudwig van Beethoven)作曲の交響曲第5番ハ短調 作品67「運命」(Sinfonie Nr. 5 c-Moll op. 67 "Schicksals")の第2楽章アンダンテ・コン・モート(Andante Con Moto)のギター二重奏を効果的に実演するために帰郷後のF.ターレガが編み出したもので、その後L.v.ベートーヴェンの幾つかのピアノ・ソナタ作品などでも同様の調弦を利用してE.プジョールと二重奏を行っていたようだ。

 7単弦ギターという形で実現しなかった理由については断定できるほどの情報は無く詳細不明。気に入る楽器が無かった、長年6単弦を使用しており弦を増やすのは違和感があったなどの理由が考えられるが、7コース仕様自体は既にスペインで生まれている。彼の所有ギターを製作したA.トーレスが7列目にB1を追加した主弦7列浮遊弦4列の11単弦ギターを製作した経歴があり(「Sky VI」参照)、同じくF.ターレガの所有機を製作したV.アリアスも11単弦ギターや8単弦ギターを製作していることからすると発想の前提として低音弦を追加する選択肢を知っていた可能性は高い。因みに20世紀後半のアメリカのロック・ギター奏者ポール・ギルバート(Paul Gilbert)はW. A.モーツァルトが作曲したピアノ・ソナタ第10番 ハ長調 K.330の第3楽章を「Whole Lotta Sonata」としてエレクトリック・ギターで演奏する際にギターを3パートに分け、低音パートはブルドンをA1に、高音パートはフレットを増設した25f仕様にするという形で6単弦ギターのまま対応している。彼はまた7単弦ギターを別の曲で使用しているが、こちらは以前から使用していたブルドン以外短2度(半音)下げの6単弦ギターにE2E3E4の3単弦を加えた双棹9単弦ギターの改良型として製作されている。双棹化した理由は オクターヴを利用したアルペジョを演奏するためで、単棹7単弦化したのは演奏性向上の為単棹に纏めたとのこと。P.ギルバートは様々な変則調弦やギターではあまり用いられない調性を積極的に活用する奏者として知られている。

Guitarra Portuguêsa
 上は涙滴形弦蔵のコインブラ型(Guitarra de Coimbra)で調弦は C3C2-G3G2-A3A2-D3D3-G3G3-A3A3。 渦巻形弦蔵のリスボン型(Guitarra de Lisbona)は調弦が長2度高い。 楽器は18世紀頃から広まり、ファド(Fado)と呼ばれる歌曲の 伴奏に使われる。奏法は義爪による爪弾だが、リウトの奏法 とも一部共通。
 ラテン・アメリカ諸国の事情を見ると、 ブラジルでは7単弦ヴィオラ(ヴィオラゥン・ヂ・セチ・コルダスViolão de Sete Cordas)として20世紀初頭からショーロ(Choro)、1920年代からサンバ(Samba)、1950年代末からボサ・ノヴァ(Bosa Nova)等に使われている。主な奏者としてはリオ・デ・ジャネイロ(Rio de Janeiro)出身のジーノ・セチ・コルダス(オロンヂーノ・ホセ・ダ・シウヴァHorondino José "Dino 7 Cordas" da Silva)、ハファエル・ハベロ(ハファエル・バティスタ・ハベロRaphael Baptista Rabello)、ヤマンドゥ・コスタ(Yamandu Costa)、ルイジーニョ・セチ・コルダス(Luiz Araújo "Luizinho 7 Cordas" Amorim)など。R.ハベロとジーノは『ショーロではじまる会話』の録音で共演もしている。

 7列目は通常膝臏夾立式モダン・ヴィオロンチェロのブルドンと同じC2。起源についての詳細は不明だが、ショーロの楽団が19世紀末にヨーロッパへ楽旅した際に持ち帰ったのがきっかけでコントラバス・ヴィオロンなどの低音担当楽器がいなかった代わりにベースパートを受け持ったのが発端という話がある。また農民の間では複弦で10弦からなるヴィオラゥン(Violão)が使われており中には14弦の物もあったという情報もある。これは5複弦のヴィオラ・カイピーラ(Viola Caipira)のことと思われる。現代の物は弦長580㎜ほどで19f、調弦はA3A2-D4D2-F4F#3-A3A3-D4D4など。「14弦」は単純に全列2本1対と考えれば7複弦ギターとなるが、ポルトガル系の楽器では一部を三重弦とすることもあり詳細確認中。ルネサンス・ビウエラでは5複弦、6複弦、7複弦仕様が使われていた。 ロックバンド、セパルートゥラ(SEPULTURA)のアンドレアス・キッサー(Andreas Kisser)はアルバム『ケイオスA. D.』収録の「カイオヴァス」でヴィオラ・カイピーラの表現を模倣している。

 因みにここで言う「ヴィオラ」や「ヴィオラゥン」とはギターのことを指す。ポルトゥゲサ(ポルトガル共和国República Portuguesa)ではリウトやバンドーラ(Bandura, Pandora)、イギリス・ギター等と同系譜にあるギターラ・ポルトゥゲサ(Guitarra Portuguêsa)のことをギター(ギターラ)、スペイン・ギターをヴィオラ(ヴィオラゥン)と言う為。直接的には隣国スペインで「ギターラ」と呼ばれる楽器とヴィオラゥンは調弦則や音域が近似しており、楽器を膝臏夾立式擦弦楽器のガンバ属、その元になった前述の撥弦楽器ビウエラが好まれて使われていたことの影響かと思われる。17世紀までは擦弦楽器をヴィオラ・デ・アルコ(Viola de Arco)、撥弦楽器をヴィオラ・ダ・マーノといったように共鳴胴に棹のついた楽器全般を伊語で「ヴィオラ(Viola。あるいはフィドゥラFidula、ヴィトゥラVitula。古仏語ではフィデイユFideille, 中世仏語ではヴィオルViole, ヴィエユVielle, ヴィウラViula、ヴィエルVièle、西語ではビウエラVihuela, ビユエラViyuela、高地独語ではFidula, 中高地独語ではヴィデーレVidele, フィデルFiedel, 現代独語ではフィーデルFiedel、英語ではフィデレFiðele, フィテレFithele, フィドルFiddle、諾語ではフェーレFele、典語&愛語ではフィードゥラFidla、中世羅語ではフィデッラFidella, ヴィエッラVigella, ヴィトゥラVitula, ヴィドゥラVidula, ヴィアッラVialla, ヴィーエラViella)」、中世ローマでも「小さなキタラ」を意味するフィディクラ(Fidicula)を弦楽器の総称として用いた。元々は「弦」を意味するフィデ(Fides)という言葉から来ているようだが、大元を辿るとコーカサス地方オシーシャ(Ossetia)のファンディル(Fandir)に辿り着くという。

 この総称としての使われ方の為現在の仏語や伊語でもアルト・ヴィオロンのことは区別して特に中音域を意味する「アルト(Alto)」を付して呼ばれることがある。またヴィオル属の中低音膝臏夾立式楽器バス・ドゥ・ヴィオル(Bass de Viole, ヴィオラ・ダ・ガンバViola da Gamba)でもソロ等で7単弦仕様が使われていた。なお、離島ではポルトガル領アゾレス諸島(Açores)の聖ミゲル島(São Miguel)で使われるギター、ヴィオラ・ダ・テルセイラ(Viola da Terceira)にも1~3列目を複弦、4~7列目を三重弦とする7コース18弦仕様が存在するが、何時頃現れた物かは現在調査中。

 この他中南米各地の音楽でも7単弦ギターは利用されており、メキシコ合衆国(メヒコMexico)ハリスコ(Jalisco)州アウトラン・デ・グラナ(Autlán de la Grana)出身の作曲家でありギター及び膝臏夾立式モダン・ヴィオロンチェロ奏者でもあったラファエル・アダメ(ラファエル・ゴメス・アダメRafael Gómez Adame)は、1930年頃に7単弦ギターを使った「ギター協奏曲 第1番(Concierto No.1 Guitarra con acompañamiento de Orquesta)」を作曲・演奏しており「20世紀最初のギター協奏曲」と言われている。また1933年までには「小協奏曲 第2番(Concertino No.2 Guitarra con acompañamiento de Orquesta)」を作曲、こちらにも7単弦ギターが導入されていると思われる。この他の7コース・ギター協奏曲としてはマウリーシオ・カリーリョ(Maurício Carrilho)作曲の「7弦ギターとオーケストラのための組曲(Suíte para Violão de Sete Cordas e Orquestra)」等。R.アダメはこの他フリアン・カリーリョ(Julián Carrillo)のグルポ13(GRUPO 13)の初期メンバーとして24分律ギターのための楽曲も作曲・自演している。24分律ギター奏者としては他に20世紀前半チェコスロヴァキア出身のステパン・ウルバン(Sêpàn Urban)が、純正調奏者としては20世紀末のギター奏者ジョン・シュナイダー及び彼の属するジャスト・ストリングス(JUST STRINGS)が知られる。

 近年ではブエノスアイレス出身のナイロン弦6単弦ギター奏者キケ・シネシ(Quique Sinesi)がソロ活動では低音側14f高音側17f接続のナイロン弦7単弦ギター他、5複弦ロンロコ、5複弦チャランゴ、ピッコロ・ギター、金属弦6単弦ギターを使用しているとのこと。

 一方、北米のアメリカではジャズ音楽においてジョージ・ヴァン・エプス(George Van Eps)が5単弦バンジョー、6単弦ギターを経て1937年に自身のエピフォン製ギターをニュー・ヨークのエピフォン社の工房に持ち込み改造、A1の7列目を導入した。1968年にはグレッチ社から20f仕様のシグナチュアモデルも発表しているが、70年代半ばに途絶えている。背景にはディスコ音楽が流行し始めたことがあるようで、1978年頃からはギターの生産自体を停止し、ドラムのみに絞っていた。

 ヴァン・エプスが7列目を追加した理由は7度音程を含む4和音の音響充実。他にベースのような動きも取り込めるという利点や母親がピアノ奏者だったことからピアノに影響を受けたこともきっかけのようで、7単弦ギターの響きを「股上ピアノ(Lap Piano)」と形容している。製作中に別の6単弦ギターのE4弦を取り除いた上でブルドンを追加する調弦を実践しており、これによって7単弦ギターを手にした時の混乱は特に無かったと後に語っている。

 G.ヴァン・エプス以降、ロン・エシェテ(Ron Escheté)やバッキー・ピザレリ(ジョン・ポール・ビザレリJohn Paul "Bucky" Pizzarelli)及びジョン・ピザレリ(John Pizzarelli)父子、ハワード・モーガン(Howard Morgen)、アラン・ド・モーズ(Alan de Mause)、ハワード・オルディン(Howard Alden)、ジェリー・ボードワン(Gerry Beaudoin)、ヴァン・モレッティ(Van Moretti)、ジミー・ブルーノ(Jimmy Bruno)、ケニー・バーレル(Kenny Burrell)、アンディ・マッケンジー(Andy MacKenzie)、フレッド・フリード(Fred Fried)等現在まで数多くの7コース・ギター奏者が生まれている。なお、高音側に弦を追加したレニー・ブロウについては「Sky IV」の脚注参照のこと。

 因みに日本で最初の7単弦ギター奏者は、現状確認の範囲内では主弦7列の21f7単弦モダン・スペイン・ギターを使用していた東北實業銀行(Touhoku Jitsugiyau Bank, 東北実業銀行Tōhoku Jitsugyō Ginkō、七十七銀行 77 Bank、1932年に五城銀行Gojiyau Bank, Gojō Ginkō及び七十七銀行と合併した)行員の澤口忠左衞門(Chiuzayemon Sahaguchi沢口忠左衛門Chyūzaëmon Sawaguchi)。大正から昭和初期にかけて仙台(Sendai)で活動していたようで、東北帝國大學(Touhoku Imperial University, 東北帝国大学Tōhoku Teikoku Daigaku)マンドリン・クラブのマンドラ奏者や仙台アルモニア合奏団(仙台アルモニア合奏團Sendai Harmonia Orchestra)の指揮者も務めていた。

*4
樂琵琶اَلْعود筑前琵琶薩摩琵琶
現代中国直頸琵琶 螺鈿紫檀五絃琵琶 螺鈿紫檀阮咸
 現代中国琵琶ピパは全音1fを含む31f4単弦、約3オクターヴ半もの音域(A2~F6)を持つ。4世紀頃伝来の直頸洋梨形は当初4弦4fで、紀元前より使われていた秦漢由来の12~14f真円形直頸批把と融合、徐々に音域が拡大され楽器の性格・奏法も変化、現在の状態となった。歴史の教科書に頻出の正倉院御物「螺鈿紫檀五弦琵琶(Raden Shitan no Gogen Biwa)」は西域で使われていた直頸5単弦仕様。唐の宮廷ではインド音楽の天竺伎(Tenjiku-gi)、クチャ音楽の亀茲伎(Kiji-gi)、トルファン音楽の高昌伎(Kōshō-gi)、ブハラ音楽の安国伎(Ankoku-gi)、カシュガル音楽の疏勒伎(Soroku-gi)、高句麗音楽の高麗伎(Kōrai-gi)で5単弦仕様が用いられていた。隋唐の宮廷俗楽については「Sky III」の項目参照。朝鮮半島でも唐から新羅へ伝わり改造されたとされる5単弦の郷琵琶が存在していたとのことで確認中。

 日本では奈良時代伝来当時の4f4単弦曲頸仕様や胸上抱撮捍撥(Kanhatsu, 撥Bachi)による奏法が現在も維持されている。中国では衰退したが、現代でも陜北曲頸琵琶等一部に胸上抱撮・撥捩奏法が残っているようだ。中国琵琶ピパで指撥が現れたのは唐の太宗代貞觀年間(627-649)と言われるが、日本に演奏技術が伝わらなかったのか伝わったものの継承されなかったのかは不明。 この指撥への変更は搊琵琶(Sū-biwa)の項目で解説している記事もあり、当初は楽種や楽器を限定した特殊な用法だった可能性もあるが、詳細確認中。搊琵琶は西域の音楽である胡楽に使われる5コース曲頸洋梨形琵琶で、指撥前は木製捍撥を使用していたようだ。 7世紀前半当時の奏者としては趙璧が知られている。また8世紀末徳宗代では寝室の女官が、9世紀前半憲宗代では詩人元稹が使用していた記録がある。なお中国琵琶ピパでの股上垂直抱撮開始時期については調査中。フレットの増加が原因と考えられることから明代までには行われていたとみられる。

 奈良(Nara)の東大寺(Tōdaiji)の正倉院(Shōsōin)宝物庫には琵琶本体の他に象牙製の牙撥縷撥(Kōgebachiru-no-bachi)が現存している。宝物庫は北倉、南倉が三角柱状の横木を組み合わせた校倉造(Azekura-zukuri)で有名だが、現在宝物はコンクリート製の新宝庫に保管されている。校倉造は枠組み壁構法の一種で、建築上は丸太小屋(ログハウスlog cabin)と同類。 角柱になっているのは数字に意味があり、3や5といった数字が中国で縁起の良い数字とされていたことに関係あるようだが詳細確認中。五角形の方が格が上とのこと。湿度の高い時は膨張し外気を遮断、湿度の低い時は収縮し通気をよくする事で内部を適切な状態に保ち、宝物を長期間良好に保ってきたという伝説も20世紀まで存在していたが、長期の機械計測によれば一時的で急激な変化を緩和する事は出来るものの外気との差はさほどなく、寧ろ庫内に置かれた桐箱の中に蔵めて外気から二重に隔たれた状態が有効に働いていたことを示唆する調査結果も出ているようだ。この伝説の起源については調査中。

 又、当宝物庫所蔵の5単弦仕様は全長1081㎜で古来の物としては世界に唯一現存する5単弦直頸琵琶。当時の調弦や利用法は判明していないが平安時代までは貴族の娯楽としての器楽演奏の中でも利用されていたという。但しそれらが同型の物かは不明で確認中。12世紀以前に描かれたとされる「信西入道古楽図」の「五弦」は直頸真円形4軫で捍撥使用。描写の正確性の問題はあるが、2列目が複弦になった4コース5弦の可能性がある。

 円形響胴の琵琶は現在月琴と呼ばれている。これは満月(full moon)の形状から来る名称で明代にはそう呼ばれていたようだが変化した時期については詳細確認中。長棹で大型の大月琴と短棹で小型の小月琴があり合奏で利用されている。ヴェトナムの宮廷音楽でも使用されていた他、 朝鮮でも使われていたようだ。日本でも近代に入っていたようだが詳細確認中。 古くは真円形響胴の楽器が琵琶と呼ばれており、晋代には4単弦直頸仕様だったようだ。奏者としては竹林の七賢の1人とされた阮咸(Gen Kan)が知られる。その後西域から洋梨形響胴の琵琶が伝わる頃には 秦琵琶、秦漢琵琶、秦漢子、秦漢等と呼ばれるようになるが、唐代に入って発見された壁画に阮咸が使っていたとされた琵琶と類似形状の楽器が描かれていたのを期に阮咸琵琶あるいは単に阮咸と呼ばれるようになった。 外来の洋梨形琵琶に比べ長棹なことからフレット数は多く一般に12~14fほど。通常4単弦だが小月琴では2単弦や2複弦仕様も存在している。 中国伝統の清楽でも外来の胡楽でも利用された。「柱十有二」「総二十声」とのことなので3度調弦と見られるが詳細確認中。

 正倉院には他に全長996㎜の4単弦曲頸琵琶「螺鈿紫檀琵琶(Radenshitan-no-Biwa)」や 14f4単弦真円形響胴直頸琵琶「螺鈿紫檀阮咸(Radenshitan-no-Genkan)」、 琵琶譜も残されており、これが現存する日本最古の楽譜とのこと。

 直頸琵琶の起源は、真円形についてはインドから西域を経由して前漢に伝来、洋梨形については5コース仕様がインドで生まれ西域を経由して北魏に伝来後、既にあった4コース直頸琵琶と融合したと言われる。他に前漢代に張騫が西域へ行って以降伝わったとする説もあるようだ。

 一方曲頸琵琶の起源は、ペルシア・バルバットがガンダーラから天山南道を経由して前漢に伝来したとする説、 ペルシア・バルバットがインドからタリム盆地のオアシス都市国家クチャ(龜茲/亀茲Kiji, 屈茨, 屈支, 獲之, 库车)を経由して北魏へ伝来、その後南朝梁へ伝わったとする説、 インドから五胡十六国時代の350年に華北へ、551年迄に南朝梁へ伝わったとする説、 クチャから北魏へ伝わり既にあった直頸琵琶と融合したとする説等があるようだ。

 曲頸仕様はヨーロッパのリウトにも採用されているが、これは現在でも東南アジア~南アジア~西アジア~中東~北アフリカまでの広範囲で使用されているアル=ウード(اَلْعود, ウードal-Udo, オウドOud)を由来としており、遡るとサーサーン朝ペルシャ(ساسانيان, Sāsāniyān)で発達している。7世紀頃にサーイヴ・カーイチール(Sāib Khāīhir) が発明したとも言われるが、短棹有棹撥弦楽器自体はそれ以前からあるので、曲頸仕様や複弦仕様、響胴形状等の確立ということも考えられ、詳細確認中。ペルシアではイーダーン(Īdān)と呼ばれ、 10世紀末頃にモハメド・イブン・アフマド・アルクワーリズミー(Muhammad Ibn Ahmad al-Khwārizmī)が 「アヒルの胸」を意味するバルバット(Barbat)と名付けたと言われている。

 現代ウイグル語ではバルビット(Barbit)、 古代クチャ語ではヴィパンキ(Vipanki)、 梵語(古代インド語。文字名デーヴァナーガリー, サンスクリット)ではバルブー(BharBhu)、古典ギリシア語ではバルビトン(Barbyton)と呼ばれる類似の語があることから 中国語のピパ(pípa)も含めて共通の語源と考えられているようだ。 「琵琶」については漢代まで「批把」と書かれており、「批」がダウンストローク、「把」がアップストロークを意味するという。「琵琶」の表記に変わったのは晋代頃で、当時の楽器分類で琴の一種とされたことによるという説がある。

 当初は4コース仕様で、現代でもチュニジア・アル=ウードでは4コース仕様が使用されている。5列目が加えられたのは9世紀頃、アッバース朝(الدولة العباسية, al-Dawla al-Abbāsīya)の首都バグダード(بغداد, Baghdād)の宮廷楽士長イブラーヒーム・アル・マウスィーリの弟子だったズィルヤーブ(アブ・アルハサン・アリ・イブン・ナフィ" أبو الحسن علي ابن ناف" زرياب, "Ziryab" Abu al-Hasan Ali Ibn Nafi )によると言われている。ズィルヤーブは「黒い小夜鳴鳥(Nightingale, Sayonakidori)」のことで、肌の色と歌声の美しさから名付けられた渾名。イブラーヒーム・アル・マウスィーリは息子で次の宮廷楽士長イスハーク・アルマウスィーリ(Ishaq al-Mawsili)と共に古代ペルシャ音楽や楽器をアラブ宮廷音楽に持ち込んで融合したとされる。またイブラーヒームの異母兄弟マンスール・アル・ザルザル・アル・ダーリジュはバルバト奏者・楽器製作家で、アラブのミズハールとペルシアのバルバットを融合してアル=ウードを作ったとも言われているが真偽不明。前述のアルクワーリズミーがバルバットの命名者であるとする説やアル=ウードがミズハールとの素材の違いを区別する為に名付けられたとの説を総合すれば、元々ミズハールしかなかったアラブ世界にペルシアのイーダーンを持ち込んだ、あるいはそれ以前から流入していたものの名前が区別されていなかったところにアル=ウードという名前を付けたとも考えられるが、関連は確認中。

 ズィルヤーブはアッバース朝第5代ハリーファ(خليفة, khalīfa, カリフCaliph)のハールーン=アッラシード(アッラシード・ビッラー・アブー・ジャアファル・ハールーンهارون الرشيد,al-Rashīd bi-Allāh Abū Jaʻfar Hārūn, Hārūn al-Rasīd)に仕えた後、後ウマイヤ朝(خليفة قرطب, The Caliph of Córdoba)の首都コルドバ(Córdoba)へ移って第4代アブドゥ・アッラハマーン2世(عبد الرحمن الثاني, 'Abd al-Rahmāan II)の宮廷音楽家となり、ヨーロッパ初の音楽専門大学も開設した。このことがきっかけでアル=ウードや食事作法、新しい髪型をヨーロッパに伝えたと言われる。また彼は無柱指板に仮想フレット線も加えた他、マカーム(مقامة, maqāmāt)などの音楽理論を大成し中東、スペイン、所謂ジプシー音楽の起源の一端となったと考えられている。 仮想フレット線は遅くとも14世紀末までには獣腸製の紐を桿棹に巻くことで実体フレット化し各地に広まったようだ。なお中国直頸琵琶や阮咸琵琶等は早くから木製フレットが使用されているが、起源他詳細は調査中。

 現在アル=ウードでは6コース11弦や6複弦仕様も存在しているが、こちらは19世紀になってから加えられたもので、由来については詳細不明。 調弦は4度を基本にしたG2-A2-D3-G3-C4だが奏者によっても異なり凹形調弦を採る者もいるとのこと。捍撥は木製または鳥羽軸だったが現代では水牛角製やセルロイド製等が利用される。棹胴接続位置は通常7f。また20世紀以降も5コース仕様は存続しており、20世紀前半のシリア~レバノン国境付近出身でエジプトにて活動したファリドェル・アトラシュ(ファリド・アル・アトラシュ)は5コース仕様を使用していたようだ。ペルシャ音楽やアラブ音楽では古来よりアル=ウードを使用して楽理を説明する等非常に重要な楽器だった。20世紀半ばまでは民謡歌手でもアル=ウードを弾くのが通常だったようだが近年はそうでもないとのこと。

 日本の4単弦曲頸琵琶に関しては、これらと別に近代に入ってから筑前琵琶(Chikuzen Biwa)や薩摩琵琶(Satsuma Biwa)において5単弦仕様が生まれ、現在も継承されている。筑前琵琶が薩摩(現、鹿児島県)に渡り独自に発展、5単弦化したものが筑前琵琶に饋還した。薩摩では文武両道の価値観の下、武士の教養の一環として演奏されたようだが、少なくとも現代では女性奏者も多い。非常に大きな捍撥を使用し世界的にも珍しいとの指摘がある。これは緊急時に手裏剣として使う為との情報があるものの真偽不明で確認中。また、福建南曲4単弦曲頸琵琶は指扱だが水平抱撮で三日月形響孔を持っているとのことで関連確認中。

~整理中~
平家物語=治承物語 原本成立は承久1219-1222~仁治1240-1243頃
平家→平曲 中世の語り物。平家物語に曲節をつけて琵琶の伴奏で語る。
      鎌倉時代に盲人生仏が初めたと言われる。音楽的には声明の派生。
      鎌倉末期に一方流と八坂流に分流。
        一方流=都方流:如一創始。覚一が大成。名の下に「一」を添えるのが語源
        八坂流=城方流:京都八坂の城玄(城元)創始。名の下に「城」を添えるのが語源
      室町時代に一方流が明観派・師堂派(志道派)・戸島派・源照派(玄正派)に、八坂流が城聞(妙聞)派・大山派に分派。
      江戸時代に八坂流衰退。一方系前田流と一方系波多野流が対立→前田流のみ現存
      シラコエ白声、クドキ、サシゴエ指聲、ヒロイ、初重、二重(中音)、三重等の曲節型が発生・固定
       →謡曲・浄瑠璃節の源流に。
      白声:平家琵琶で節を付けずに朗読調に言い流す部分
      クドキ:低音のごく単純な節で叙事的に文章を言い流す部分。平曲の大部分はこれ。
      差声:平家琵琶や謡曲、声明の論義等で単純な節で内容を主に言い流す部分
      初重:声明や平曲で最低音域の旋律。
      三重:平曲や声明で最高音域。浄瑠璃や長唄で曲の変わり目や終わりの節。非長唄端唄系歌舞伎囃子器楽曲。
         浄瑠璃長唄系三重
           大三重、愁三重&c.
            愁三重・・・浄瑠璃の愁嘆の場終結部で哀愁を強調する部分。下座音楽で主役退場時に愁嘆を表す三味線独奏。
         歌舞伎囃子系三重
           対面三重、忍三重、送三重、幽霊三重、行列三重&c.
           対面三重・・・「曾我の対面」で曾我兄弟が揚幕を出て花道の七三で極まるまでの下座音楽。
               曾我の対面 曾我十郎祐成とソガノゴロウトキムネ曾我五郎時致兄弟の仇討ちに取材した歌舞伎狂言で
                     曾我兄弟と敵の工藤祐経が初めて顔を合わせる場面。
                     18世紀初頭以来江戸の初春狂言として定着。
                  曾我十郎祐成:鎌倉初期の武士。伊豆の豪族河津祐泰の子。
                         5歳の時に父を殺され富士の裾野の狩場で仇討ちするも捕殺。1172-1193
                  曾我五郎時致:祐成の弟。1174-1193
                  河津祐泰:平安末期の武士。伊東祐親の子。相撲の名手。工藤祐経の部下八幡三郎等に伊豆赤沢山で殺される。?~1176
                  伊東祐親:平安後期の武士。工藤一族で河津二郎。源頼朝の監視役。石橋山の戦いで追撃。のち頼朝に捕縛→自刃。?-1182
                  工藤祐経:鎌倉前期の武士。伊豆伊東の所領を従弟の伊東祐親に奪われたので狩場で逆襲、祐泰を殺す。頼朝の寵臣。?-1193
           忍三重・・・忍びの場面で暗中の手探りの動きなどに用いる三味線音楽。要するにピンクパンサーのアレ
           送三重・・・主役が花道へ引っ込む時の音楽
盲僧琵琶 琵琶で拍子を取りながら地神経等を読み、余興に物語をする盲人。
     平曲の源流である古い芸能が九州地方などに残ったと見られる
     地神経:地神を祠る経文。
薩摩琵琶 室町末期成立。
     全長約3尺(910㎜)。4f4単弦で長棹。柘植製捍撥使用。
     歴史物・合戦物・教訓物、悲壯な曲風→筑前琵琶へ影響
     明治以降東京進出
      正派、錦心流、錦琵琶の3流。
      5f5単弦は錦琵琶。
筑前琵琶=筑紫琵琶
     桐製響胴。5f4単or5単弦
     博多の橘智定が上京して初代旭翁を号す。
     明治20年代に筑前盲僧琵琶音楽に薩摩琵琶音楽と三味線音楽を融合して誕生。女流奏者が多い。
     流派は旭会、鶴崎流、吉田流、高峰流、橘会
 これらの俗琵琶(Zoku Biwa)は唐代の仕様を残す楽琵琶(Gaku Biwa)とそれほどフレット数が変わらない一方で、現在ヴェトナムの旧宮廷音楽で使われている直頸弾琵琶ダン・ティ・バ(Ðàn Tỳ Bà)は16f4単弦仕様で捍撥も使用せず現代の中国直頸琵琶に近くなっている。ヴェトナムではインドの影響を受けていた時期もあるが、唐以降中国の影響が強くなっている。現在まで継承されているのは明代の様式。合奏での弦楽器には洋梨形以外に真円形の阮咸琵琶や三絃も加わる。

 4単弦、5単弦以外の仕様も中国ではあったようで、宋代には六絃琵琶、七絃琵琶、八絃琵琶等が文献に挙がっている。 但し八絃琵琶は挿図を見る限り4複弦の可能性が高いと思われる。 六絃琵琶に関しても詳細不明で、6単弦、4コース6弦、3複弦といった可能性が考えられる。 胡楽で使用されたという大琵琶や小琵琶の解説本文では「四弦」としながらも挿図の糸巻は大琵琶が6本、小琵琶が5本となっており、 4コース6弦や4コース5弦、解説又は挿図の錯誤といった可能性が考えられるが詳細不明。洋の東西、古代・現代、楽種を問わず楽器解説における単弦と複弦の区別に関しては曖昧な物が非常に多いので注意が必要。

 七絃琵琶については1列目最高音13fのみ全音間隔の隔孤柱で、2~7列目は12fの7コース13弦真円形琵琶。弾き易いように響胴の一部が削られた コンター加工がなされていたようだ。玄宗代の開元年間(713-741年)に鄭喜子(Tei Kishi)が使用していたとされるが、これが鄭専用の特別仕様だったのか一般にも使用されていたのかは不明。

 この他歴史上名前の残る特定個人の琵琶としては5世紀末南斉の褚淵(Chǔ Yuān, Cho En)が使用した銀製フレットで金縷によって装飾された桿棹の金縷柄銀柱琵琶(Kinruhei-Ginchū-biwa, 金縷琵琶) 、9世紀前半、唐の文宗代に鄭中丞(Tei Chūjo)が所有した大忽雷(Dai-Kotsurai)、小忽雷(Shō-Kotsurai)等がある。尚銀製フレットは18世紀末~19世紀初頭の金属フレット導入期に西欧のギターにもあったようだ。

 又、記述があるものの詳細確認中の物としては 一絃琵琶雲和琵琶、中国で俗楽に使用されたという双鳳琵琶、 中国で胡楽で使用されたという崑崙琵琶亀茲琵琶蛇皮琵琶等。

 尚、「弦」の代わりに「絃」という字をあてることもあるが、これは旧表記(弦の旧字というわけではない)。本来「弦」は弓に張った糸のことを意味し、「絃」は楽器に張った糸のことを指す字として「弦」から派生した俗字。現在の日本語ではどちらを使用しても構わないが、和楽では「絃」を使用することが多い。和製漢字ではなく中国でも使用されているが、「弦」も同様に楽器用の糸に対して使用している。この他日本では雅語として「(O)」を用い、三味線を三つの緒(Mitsu-no-O)、和琴を六つの緒(Mutsu-no-O)といったように楽器によらず弦の数で纏めた言い方をすることがある。弦楽器では弦の数をそのまま楽器の名称として使用するケースは世界中で見られる。 本稿では楽器の名称の一部として「絃」を使用する場合があるが、楽器の部品の一部や仕様を指して使用する場合は「弦」を用いる。

 材質は駱駝や羊、豚、牛、獅子等の獣腸を蒸して撚ったガット(gut)を楽器用の弦に利用するのが一般的で、他にテニスのラケットやコンドーム(Condom)、風船等にも利用された。楽器弦としては湿度が上がると伸びて音が下がりやすいという欠点があるが、脂分が乾燥すると音色が悪くなるとの指摘もある。またフレット付き指板の楽器では押弦によって痛みやすい。一般的に弦が伸びきってそれ以上は殆ど伸びなくなった状態を「音が悪くなった」として交換の目安としているとみられる。耐久性は数時間~1週間ほど。悪条件では取り付けて間もなく切れる事もある。この他中世には一般奏者の間でウェールズ・ハープに騣(mane)、アイルランド・ハープで革が使用されたという。

 一方東洋では(Nikawa, Glue)で固めた絹糸(Silk)を利用することが多い。ただしヨーロッパ・地中海世界に絹弦が全く無かったわけではなく元々アル=ウード等でも絹弦が使われており、後に羊や獅子の獣腸弦に変わった。また近代に入ってもウィーンで高音弦や巻弦の芯線として利用されていたことはあった。代用弦としても20世紀後半の日本でセミガットと呼ばれて絹弦が使用されたこともあったようだ。 一般的には20世紀後半以降ナイロン弦が利用されている。絹弦は獣腸弦と逆で乾燥すると切れ易いという欠点がある。動物由来の物ではモンゴル国(Монгол Улс)等の馬頭琴や中国南西部の(Yí, I)族で使用される馬頭小三弦で馬尾弦が利用されている。同じく彛族で使用される大三弦アルフヤモ(Erheyamo, 二合亜莫, 三弦亜莫)では絹弦の他に牛筋弦が使用されるようだ。傈僳(lìsù)族で使用される小三弦(Qlbbex, 期卒厄Qízúè)では麻弦も使用されることがある。

 なお膠は木製楽器の接着剤としても広く使われている。水分やアルコールに弱く接着力も低いが、これは木材の歪みに柔軟で罅割れ等を起こしにくいことや内部補修・部品の交換が容易という利点がある。現代では米製のタイトボンド(Titebond)等が量産楽器に使われるが、接着力が強いため経年変化に対して無理な力が働きやすい他、指板の接着に使われた場合交換や反りの修理等には障害になるとの指摘もある。

 弦楽器の発祥は狩猟用弓弧に張った糸を弾いて音を出した弦打(tsuru-uchi)にあり、南フランスのレ・トゥロワ・フレレ(Les Trois Freres)洞窟の旧石器時代(Palaeolithic)の岩絵に見られる他、アフリカ大陸ではオコンゴ(Okongo)やコーラ(Cora)と呼ばれる楽器があったようだ。 現在でもセネガル共和国(République du Sénégal)等で使用している部族は存在、 ウガンダでは地上起立仕様があって英語ではグラウンド・ズィサー(Ground Zither)と呼んでいるが本来の名称は確認中。また中米の一部海岸付近にも見られ、カナダ(Canada)の作曲家・芸術家・社会活動家バフィ・セント=マリー(ベヴァリ・セント=マリーBeverly "Buffy" Sainte-Marie)が復活演奏したという。また愛好者による作曲・演奏活動等も行われている。なお中南米では古来より飛び道具として投擲補助具を使った投石や投槍が使われていたことから、弓弧使用の起源については調査中。楽器としてはこの場合音響効果を高めるために奏者自身の口蓋が共鳴胴として利用され口弓(アルク・ミュジカルArc Musical)または口琴と呼ばれる。 当然1単弦ではあるが、瓢箪など空洞を持った植物の果実に複数の狩猟用弓弧を差し込んだ多弦弦打用楽弓(プリュリ・アルクPluri Arc)も存在し、ハープ(Harp)の直接の起源となっている。ブラジルの舞踊的武術カポエイラの伴奏に使われる共鳴胴付弓弧ビリンバウも捍撥で叩いて使用しているが、これはアフリカから伝わったもの。木の枝に金属線を張って弓弧を作り、椰子の実を刳り貫いて差し込むことで手作りされている。自動車のタイヤに使用される鋼鉄線が純度が高く丈夫として弦に使用している者もいる。

 中東では古代、全域で使用されており、アッシュール(آشور, Asshur, アッシリアAssyria)では反りが深く小音量の夾痩形アッシュール・ハープ、反りが浅く大音量の王弓形エジプト・ハープが使用されていたようだ。これらは弓弧を母体にした1部品の響胴だが、バビロン人は響胴と弦蔵の2部品から成る三角形ハープを開発、 片手で捍撥による打弦を行う水平型三角形ハープと両手で指撥する垂直型三角形ハープの2種類が使用された。後にペルシャへ伝わったものは16世紀まで使用されたという。中央アジアや南アジアに伝わっている竪琴も水平型三角形ハープの系統になる。支柱を追加したのはシリア人で、強度増強が目的と言われている。ヨーロッパへ伝わった竪琴はこの3部品のシリア・ハープの系統になる。

*5  製造年はメディアによって1975年と1976年に分かれるが、1975年発表の『IN TRANCE』レコーディング直前に購入したことや 同アルバムのジャケットで女性が持っている物がそれであるとU.J.ロートが述べているところから本稿では1975年を採用した。76年説は U.J.ロートがインタビューで「76年頃」という表現を用いたことがあったことに端を発すると思われる。

 PUは高さを変更しており、センターはやや低め。これはセレクターを使わずに多少の音量・音質がコントロール 出来るとの考えによる。

 アームは「ウィング・バー(Wing Bar)」と名付けており、過激なアーミングによって市販品が折れてしまうために取り替えたとのこと。1978年の段階で15本くらい取り替えているとコメントしている。2004年の北米ツアーでもリハーサルの際に折れて急造したことがあった。 きっかけはリッチー・ブラックモア(リチャード・ハロルド・ブラックモアRichard Harold "Richie" Blackmore)だが効果自体はジミ・ヘンドリクス(ジェイムズ・マーシャル・ヘンドリクスJames Marshall "Jimi" Hendrix)が行っていた表現を狙ったものでスコーピオンズ時代から使われていた。製作者は同バンドのベース奏者フランシス・ブッフホルツ(Francis Buchholz)。なお、テンションスプリングは3本または5本。


Trans Performace
搭載Telecaster
Tronical Power Tune
搭載Stratocaster
*6  ハンブルク(Hamburg)のクリス・アダムズ(Christopher "Chris" Adams)が開発し特許を取得した自動調弦機構。下駒付近にセンサーを搭載(後にピエゾPU搭載の下駒に一体化)し、ボリュームポッドと共用にしたコントロール・ノブを操作することで糸巻が自動的に回転して2~5秒で調律をする。 モーターは0.02セント単位で回転するが、時間を短縮させたい場合は最大2.5セント単位まで調節可能。完了するとノブのLEDが青色に点灯する。

 汎用調弦の他ト長調調弦、ホ長調調弦、E調弦、D調弦などが可能。 また手動で調弦することも可能。U.J.ロートはスカイギター向けに7単弦用糸巻きの開発を依頼している。 Ch.アダムズは2007年1月にはギブソン社と契約、レスポール型やSG型ギター等にも一部搭載されロボット・ギター(Robot guitar)として販売、12月には日本にも輸入された。

 自動調弦機構の初出については調査中だが、この他にトランス・パフォーマンス調弦機構(Trans performance tuning system)のザ・パフォーマ(Ther Performer)がある。これは糸巻ではなく下駒に自動調節のサドルと音を感知するディヴァイディッドPUを持った特殊な装置(Smart Bridge System)を設置する物で、響胴部にはこの他側部にLCDパネル(LCD Read out)、ボタン操作パネル(One touch tuning panel)が表面板上に設置される。電力は外付けのバッテリーを装着して供給。ジミー・ペイジ(Jimmy Page)がレスポール・カスタムにザ・パフォーマーやその前身となったDigital Tuning System-1を搭載したことで広く知られるようになった。

トゥロニカルの主な調律操作。
最初にボリューム・ノブを引っ張ってから目的の位置に合わせる。
位置 機能 D2 E2 G2 A2 B2 D3 E3 G3 A3 B3 C4 D4 E4
Instantly activated 前回の設定
0 440㎐ Regular
E E Major
A DADGAD
D Dropped D
G G Major
B Hendrix
e Double Dropped D
I Refference ピッチ変更
Custom Altered 調律自己設定
#+3秒押 String Up 弦交換時の緊張&調弦
+3秒押 String Down 弦交換時の弛緩
C+3秒押 Calibration mode 435㎐ … C & Eを点灯させる
436㎐ … C & D, #を点灯させる
437㎐ … C & Aを点灯させる
438㎐ … C & A, #を点灯させる
439㎐ … C & Dを点灯させる
440㎐ … C & D, #を点灯させる
441㎐ … C & Gを点灯させる
442㎐ … C & G, #を点灯させる
443㎐ … C & Bを点灯させる
444㎐ … C & B, #を点灯させる
445㎐ … C & eを点灯させる
446㎐ … C & e, #を点灯させる