【Sky Guitar;スカイギター】デュッセルドルフ(Düsseldorf)生まれハノーファー(Hannover)育ちのギター奏者&作曲家、ウリ・ジョン・ロート (ウルリヒ・ロート)がヴァイオリンの高音域を実音で演奏可能にするために設計した、シャントレルをE4とした時に同一弦上でB♭6音以上を発音可能にする長さの指板を備え、巴に一部括れを入れた形に似る胴体を持った6単弦または7単弦のソリッドボディ型エレクトリック・ギター。
高音、低音ともにフェンダー社製21f6単弦エレクトリックギター、ストラトキャスター(Stratocaster)の音域にかねてから満足していなかったウリ・ジョン・ロート (ウルリヒ・ヨハヒム・アントン・ヨーゼフ・ロートUlrich Joachim Anton Joeph "Uli Jon" Roth 詳細は「Curriculum Vitae」参照)は、「どんなギターでも作ってやる」というブライトン(Brighton)在住のギリシア系ギター製作家アンドレアス・ディミトゥリウ(Andreas Demetriou)に出会い、愛用の2本のストラトキャスターにフレットを2つ足し23f(D#5)にしてもらう。しかし更に高い音程を欲した彼は自らギターのデザインを始める。これがスカイギター(Sky Guitar)の起源である*1。 当時はフェンダー社(Fender)製で21f(C#5)、ギブソン社(Gibson)製で22f(D5)が主流であったが、 19世紀ギター(Romantic Guitar)にも既に24f(E5)が存在していた他、ギターではないが16~17世紀にイタリアで流行したコラシオーネ(Colascione)という2単弦または3単弦の金属弦有棹撥弦楽器で24f仕様はあったようだ。またアジアに目を移すと、リウト(Liuto, リュートLute, ラウテLate, リュトLuth)と祖を一にすると考えられる中国の4単弦直頸琵琶(北琵琶ペイ・ピ・パBěi Pí Pa)*4においては1950年代頃から31f(B5)が標準仕様となっており、また長頸型(Long neck)ではウイグル(回紇, 回鶻, Uyghur)族が用いる3コース5弦楽器タンブール(Tembor)で27f以上が一般的。この他のフレット付撥弦楽器ではモダン・ナポリ・マンドリン(マンドリーノMandolino, Mandolin)で25~30f超の仕様が、ギリシャ共和国(エリーニキーΕλληνική Δημοκρατία)のブズーキ(ムプズーキ(?)Μπουζούκι)が26f、またロシア連邦(ロッシヤРоссийская Федерация)のモダン・バララーイカ(Балалайка)*2が19世紀後半に合奏楽器として確立した際にモダン・ソプラノ・ヴィオロン(ヴァイオリンViolin, Violine, ヴィオリーノViolino, ヴィオロンViolon, ディスカント=ガイクDiscant-Geig)やマンドリンの影響を受けて27f仕様が一般的な仕様となっている。 ラウンド・バック(Round back)のモダン・マンドリンで27f仕様が現れたのは19世紀中葉ローマ(Roma)のルイージ・エンベルガー(Luigi Embergher)製の頃からのようで、これはマンドリン合奏における最高音楽器としてソプラノ・ヴィオロンの影響を受けていると思われる。なお現在一般に「マンドリン」と言われる5度調弦の4複弦有棹撥弦楽器はナポリ(Napoli)で確立されたものでナポリ・マンドリンでは17fが標準的だった。この他小胴のフィレンツェ型、中世マンドーラの仕様を残すミラノ(Milano)型や駒高のローマ型、太棹のジェノヴァ型等イタリア各地に固有のマンドリンが存在している。 ジェノヴァ・マンドリン(Mandolino alla Genovese)は金属弦6複弦仕様。複弦は全列ユニゾンで調弦はギターの汎用調弦のオクターヴ上となっており、北イタリアやフランスで普及していた。ジェノヴァ共和国(Repubblica di Genova, 現イタリア共和国領)の首都ジェノヴァ(Génova, Genoa)出身のヴィオロン、ギター&マンドリン奏者ニッコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini)が最初に父から教わった楽器で作品も残している。P. J. ボーンの『ギターとマンドリン』ではパガニーニ愛用の楽器としてナポリ・マンドリンの写真が掲載され日本ではこの情報が広く伝えられたものの、元々観光用に用意された資料で写真が学術的に本物とされているかは不明とのこと。 また18世紀前半ヴェネツィア共和国(Repubblica di Venezia)出身のヴィオロン奏者・作曲家・音楽教師・司祭アントーニオ・ルツィオ・ヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi)が想定したマンドリーノはミラノ型の弦長約300㎜10f6コース仕様(G2G2-B2B2-E3E3-A3A3-D4D4-G4G4)という指摘もあるが詳細不明。マンドリーノはリコーダーやバロック型ソプラノ・ヴィオロンと同様最高音楽器として使用されていた。弦長約440㎜の9f6コース・ソプラノ・リウトが使われたという話もあるようだが、ソプラノ・リウトがイタリアで使われたのは16世紀末~17世紀初頭で、17世紀半ばにはスペインで民族楽器として残る程度だったことから可能性が低いとの指摘や、オクターヴ上げた譜面によりテナー・リウトのための曲をソプラノ用と誤解して主張しているとの反論も出ている。詳細確認中。 本来イタリア語ではマンドリーノと呼ばれるが、一般にはバロック・マンドリーノなど古楽器を指して使われることが多い。クラシック音楽では18世紀後半神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation, 現オーストリア共和国領)領ザルツブルク(Salzburg)出身の作曲家&鍵盤奏者ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(ヨハンネス・クリソストムス・ヴォルフガングス・テオーフィルス・モーツァルトJohannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus "Wolfgang Amadeus" Mozart)、19世紀前半パルマ公国(現イタリア共和国領)出身のジュゼッペ・ヴェルディ(ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディGiuseppe Fortunino Francesco Verdi)が取り上げているが想定機種については確認中。19世紀後半ではドイツの作曲家・歌劇場楽団指揮者グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)は交響曲「大地の歌」で取り上げている。マンドリン・オーケストラ音楽ではマンドリーノを最高音楽器として中音楽器にマンドーラ、中低音楽器にマンドロンチェロ、最低音楽器にマンドローネが配されるが、他にギターやコントラバス・ヴィオロン等他楽器が加わることもある。
フラット・バック(Flat back)のマンドリンでは1922年半ばにロイド・ロアー(Lloyd Allayre Loar)によるモダン・ソプラノ・ヴィオロンやハープ・ギターのデザインを取り込んでデザインしたと言われているF型フラットバック・マンドリンF-5をギブソン社が発表しているが、その前進となるF-4やF-3も含めてフレット数に関しては24f以内。スカイギターはストラトキャスターのカッタウェイを一方は大きく、もう一方はばっさりと落としてしまうという発想で立奏を前提としている。最初の案では涙滴形を想定したが、直後に閃いた星雲のイメージを現実的に簡潔な図案として取り込むことにした。そこでデザインの基本コンセプトを「ƒ」という物理波形に置き(「S」の形が銀河の半分の形に見えたとも語っている)、胴上の模様は更にそれを回転させることで生まれる渦状銀河の形をイメージ。演奏意欲を増すためにも視覚的に美しいものにしたかったらしい。デザインが行われたのは1982年12月、2時間で仕上げられたとのこと。
スカイギターは現在、世界に試作品が5本と量産型が2~3本しか存在しない。ただし特注で複製を試みた人間は多数おり、また過去に無断で製造したスカイギターを販売した日本のメーカーが4社ほど存在する。主に写真から摸したようだが、3号機エンペラー(詳細は後述)から直に模りした寸法だけはかなり近いものもあったようだ。しかし値段が高価なわりに作りは粗悪だったようで所有者、試奏者からも酷評が多く伝えられる。
現在は生産されていないようだが稀に中古が市場に出回るようで、目撃例が幾つか報告されている。ちなみにスウェーデン王国(スヴェリKonungariket Sverige)のロック・ギター奏者、イングヴェイ・マルムスティーン(ラルス・ヨハン・ユングヴェ・マルムステンLars Johann Yngve "Yngwie J. Malmsteen" Malmsten (旧姓ランナーベックLannerbäck)) もスカイギターを所有しているが、これは日本製の違法コピーモデルであって本物ではない(量産型スカイをオーダーしたという情報があるが真偽の程は不明)。 また、この事件がきっかけとなり「スカイギターを作ったものは訴えられる」といった噂がファンの間に浸透、「30f前後のフレット数の多いギターはスカイギターである」といった憶測を呼び、更にフレット数の多いギターは容易に手に入らないといった特殊な状況が嫉妬の対象ともなって自作デザインのギターが熱狂的U.J.ロートファンから攻撃の対象となる事態になったこともあった。
なお、U.J.ロート自身は初めて公に披露した1985年当時よりスカイギターに対して特別な想いを持っているという心理的な理由の他に精巧なつくりのため大量生産がきかないという技術的な理由から、公認のコピーモデルを発売する意思はないとしてきたが、2005年に50本限定で販売することを認めた。 以下、5本のスカイギター及び量産品等について触れていく。
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U.J.ロート自身はスコーピオンズ(SCORPIONS)在籍時代のアルバム『復讐の蠍団
(イン・トランスIN TRANS)』の頃から音域に不満を持っていたというので1975年頃から高音の追加という欲求があったことになる。特にE5音が出したかったようだが21f仕様ではチョーキング(ベンディングBending)を利用してもE♭5が限界だった。但し当時は通常E♭調弦だったので実音ではD5が限界ということになる。 なお、A.ディミトゥリーウに長らくギター製作を依頼していた人物の未確認情報によると、常に塗装剤による害毒に悩まされていたことから現在はギター製作を引退し、ワーシングにある専門学校(Worthing College)で家具のデザインなどを教えているらしいとのことだが、U. J.ロートによれば腰痛が原因で製作を止めたとのこと。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
*2 |
バララーイカの詳細な歴史は未だ分かっていないが、記録に初めて名前が現れたのは1715年のピョートル大帝(ピョートル・アレクセーヴィチ・ロマーノフ1世Пётр Алексеевич Романов I "Вели́кий")による『登録簿』で、各民族が楽器を持って参加する皇帝主催の仮面行列にカルムィク人(Калмыки)に扮装した人々が持っていたと記されている。また1765年頃のドイツ人パラスによる『旅行記』ではカルムィク人の居住地を訪れた際にユニゾンの2単弦撥弦楽器ドームラ(До́мра)を見たことが記されているなど、18世紀後半に入ると徐々に記述が増え始める。農民の日常生活の中で親しまれていた楽器で名称の由来は
「おしゃべりする(バラカティбалакать)」と言われている。 モダン・バララーイカは 1883年にトゥヴェーリ州(Тверская область, トヴェリТверь)出身のヴァシリー・ヴァシリエーヴィチ・アンドレーエフ(Василий Васильевич Андреев)がマーリイノ村を訪れた際に農奴アンチープが弾いていたガット製フレット全音間隔配置の7f3単弦バララーイカに興味を 示したところから始まったもので、モダン・ソプラノ・ヴィオロンを習っており西欧旅行の際にマンドリンやギターにも触れていた В.В.アンドレーエフは楽器の音に不満があった為改良を始めた。彼の依頼により 1886年にサンクト・ペテルブルク(Санкт Петербург, 1914~1924: ペトゥロラードПетроград, 1924~1991: レニングラードЛенинград)のモダン・ソプラノ・ヴィオロン製作家В.В.イヴァノーフ(В. В. Иванов)が金属製フレット全音間隔配置の5f3単弦仕様を製作、1887年にはф. С. パセールフスキー(ф. С. Пасербский)が金属製フレット半音間隔配置の12f3単弦プリマ・バララーイカ(Балалайка Прима)を製作する。半音フレットの採用によりマンドリンやギターの楽曲演奏が可能になり、また板切れで作られていた楽器をプラタナス(スズカケ, 鈴懸, Platanus)又は砂糖楓(Satōkaede, ハード・メイプルHard Maple, シュガー・メイプル、ブラック・メイプル)製響胴に黒檀(Kokutan, Ebony, カマゴン、ウブンボク烏文木、ウボク烏木、クロキ黒木)製棹とし、弦をギターやモダン・ソプラノ・ヴィオロンの物に変えることで音量が増大、また操作性を考慮して棹長がそれまでの半分に短縮された。続けてピッコロ(Пикколо)、ディスカント(Дискант)、アルト(Альт)、テノール(Тенор)、バス(Бас)、コントラバス(Контрабас)の合奏用同属楽器が製作される。
1896年には後に「バララーイカのストラディヴァリウス」と称されるようになる マーリイノ村の家具職人С.И.ナリーモフ(С.И.Налимов)が、中音域のセクンダ(Балалайка Секунда)を製作。バララーイカ・オーケストラの編成が行われ各楽器の調弦も設定された。 この際ピッコロ、ディスカント、テノールのバララーイカ3種はドームラが旋律楽器として導入されたことにより消滅している。調弦はロシア農民の楽器に多かった4度調弦が導入された。残ったバララーイカのうちプリマは独奏としても利用されるが、セクンダ、アルト、バス、コントラバスはアンサンブルやオーケストラの 中でのみ利用されることから伴奏バララーイカと呼ばれる。 奏法はビウエラ(Vihuela)でのデディーリョ(Dedillo)に相当する人差し指で往復指扱(オルタネイト・ピッキングAlternate Picking)を行うブリャツァーニエ(Бряцание)、親指で下方指扱(ダウン・ストロークDown Stroke)を行うシチポーク、ギターでの掻弦(ラスゲアードRasuguead)奏法にあたるドローピ、リウトでのフィゲタ(Figueta)やビウエラでのドス・デドス(Dos Dedos)奏法に当たる親指と人差し指を交互指扱するギター奏法(後にダブル・ピッツィカート奏法と呼ばれるようになり、ギター奏法は別の用語となる)や、トレモロ奏法など。 ドームラは伝説上の楽器ドムラーを語源とするが楽器自体はバララーイカの一種で、1896年にВ.В.アンドレーエフのサークル仲間がヴァトカ県から持ち帰った際響胴形状が異なったことから В.В.アンドレーエフが勘違い、ドムラー復元のつもりでС.И.ナリーモフに製作させ これをドームラとし、合奏用の同属楽器も生んでいる。奏法は当時マンドリンが流行していたことから プレクトルムを使ったトレモロが採用されたが、後にБ.С.トロヤノーフスキーがダブル・ピッツィカート奏法を導入し無伴奏独奏楽器化、1920年代以降はピアノ伴奏を伴った独奏へも発展している。 合奏では バララーイカを伴奏に旋律楽器の役割を持ち、これに撥弦楽器グースリ(Гусли)の改良型を 加えて大ロシア・オーケストラを編成する。 調弦は4度だが1909年にС.ф.ブーロフが3単弦ドームラを改良した5度調弦4単弦ドームラを 大小5種類製作、弦楽を編曲せずに弾けるオーケストラを生み出している。 こうして19世紀末以降バララーイカは農村での本来の使われ方から独立した道を歩み始め、現在に至る。 なお、バララーイカでの27f仕様はオーケストラ結成時、交響楽団を参考に行われた音域拡大 で生まれたと思われる。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
*3 |
ギターの響きを好み、旅行中いつも持ち歩いていたというN.パガニーニは、ラコート製6単弦ギターの初期モデルの模倣であるジャン=ニコラ・グロベール(Jean-Nicolas Grobert)製ギターを1830年頃使用していた。このグロベール製ギターはフランスロマン派音楽の先駆的作曲家ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz)が所有していたことでも知られる。N.パガニーニはギター奏者との共演も行なっており、1834年にはブリュッセル(Bruxelles)でツァニ・デ・フェランティ(マルコ・アウレリオ・ツァーニ・デ・フェランティMarco Aurelio Zani de Ferranti)と、1837年には生涯最後となった公開演奏を楽旅仲間と言われているテノール歌手、弦楽器奏者&作曲家でもあった教皇領(Stato della Chiesa)フェッラーラ(Ferrara)出身の8単弦ギター奏者ルイジ・レニャーニ(ルイージ・リナルド・レニャーニLuigi Rinaldo Legnani)と共に北イタリアで行なったとされている。 また当時の7単弦ギター奏者としてはバルセローナ出身の作曲家・声楽家&ギター奏者フェルナンド・ソル (ホセ・フェルナンド・マカルリオ(マルカーリオ?)・ソル"Fernando Sor" José Fernando Macarurio(Marcario?) Sors)の弟子に当たるフランシュ=コンテ地域圏(Franche Comté)出身のナポレオン・コスト(クロード・アントワン・ジャン・ジョルジュ・ナポレオン・コストClaude Antoine Jeane George Napoléon Coste)やF.ソルとも親交のあったロシアのギター奏者ウラジーミル・モルコフ(ウラジーミル・イヴァノヴィチ・モルコフВладимир Иванович Морков )、グラナダのムルシアーノ(フランシスコ・ロドリーゲスFrancisco "el Murciano" Rodoriguez)等がいた他、F.ソルやプッリャ州(Puglia)ビシェーリエ(Bisceglie)出身のモダン・ソプラノ・ヴィオロン&ロマンティック・ギター奏者マウロ・ジュリアーニ(マウロ・ジュゼッペ・セルジオ・パンターレオ・ジュリアーニMauro Giuseppe Sergio Pantaleo Giuliani)も7単弦ギターを利用した経験はあるようだ。F.ソルが 1810年代にラコート製7単弦ギターを入手したという情報があるものの詳細不明。またその後7単弦ギターを常用していたという情報も無いが、6列目をD2に設定した楽曲は多く残されている。これがスペイン系7単弦奏者からの影響なのか、またN.コストにどの程度影響を与えたかは調査中。 F.ソルの家系は元々フランス系の移民で、本人はナポレオン戦争の際コルドバ義勇軍に志願してフランス軍と戦ったが、政局を歌った歌曲が政府批判と解釈されてスペインを出、パリを拠点にすることになった。現在ではギターの作曲家という位置付けだが、 当時はギター奏者・作曲家としてだけでなく声楽家として、またピアノ曲やモダン・ソプラノ・ヴィオロン協奏曲、オペラ、バレエ曲等も扱う総合作曲家として活動しており、ボレロの弾き語りや舞踊に対する評価もある。彼の作曲したバレエ「シンデレラ(Cinderella)」は当時パリでのロングラン記録を塗り替えた他、1826年にはロシア帝国ロマーノフ朝第14代アレクサンドル1世(Александр I )の葬儀の際に葬送行進曲(Marche funèbre)を委嘱されている。
А.シハラ門下のうちN.アレクサーンドロフはフランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert)の作品を7単弦ギター用に編曲、またС.アクセーノフはロシアのギターに7列目及びG調弦を導入したとされるトゥジェベコヴィチェ(Třebechovice現チェコ共和国トゥジェベコヴィチェ・ポドレベムTřebechovice pod Orebem, 旧ホーヘンブルックHohenbruck)出身のイグナーツ・フォン・ヘルト(Ignatz von Held, イグナツィ・ヘルドIgnacy Held)が1798年にペテルブルクで発表した教則本『7弦ギターの簡単な独習法(Méthode facile pour apprendre à pincer la guitare à sept cordes sans maître)』を再編し1819年に出版している他、イタリア出身で北欧やロシアで活動していたギター&ピアノ教師、劇場休憩音楽奏者ピエトゥロ・ペットレッティ(Pietro Pettoletti)もА.シハラの影響で7単弦ギター作品を書いているとのこと。ロシア・ギターの作曲家として知られるが、残された作品から標準調弦の多弦ギターも使用していたという分析がある。 1864年にはギター奏者ミハイル・ティモフェーヴィチ・ヴィソツキー(Михаил Тимофеевич Высотский)の弟子で詩人・民謡収集家・戯曲家・ギター奏者ミハイル・アレクサンドゥローヴィチ・スタコーヴィチ(Михаил Александрович Стахович)が編集委員をしていた雑誌『モスクワ人(Москвитянин)』(1854)及び『和音(アコードАккорд)』(1864)に寄せた記事を『7弦ギターの歴史について(Смес Охерк История Семиструнной Гитары)』として出版している。 一方でリャザン州(Рязанская область)スパスキー(Спасский)出身のピョートル・スピリドノヴィチ・アガフォシン(Петр Спиридонович Агафошин)のように始め7単弦奏者で後に6単弦奏者に転向した者おり、19世紀後半ではF.シェンクの息子で歌手&ギター奏者のヨハン・デッカー=シェンク(Johann Decker-Schenk, イワン・フョードロヴィチ・デッカー=シェンクИван Фёдорович Деккер-Шенк)が、20世紀初頭ではシチリア特別自治州(Regione Sicilia)州都パレルモ(Palermo)出身のギター奏者・作曲家アントーニオ・ドミニチ(Antonio Dominici)が渡露したこと、A.セゴビアが1930年代にはモスクワで演奏会を行なったことの影響で6単弦ギターに転向する者も少なからずいた。ただしJ.デッカー=シェンクは7単弦ギター向けの教則本も書いており、門下ではザピアトフスク出身でサンクト・ペテルブルク軍楽学校教授のヴァシリー・ピョートロヴィチ・レベデフ(Василий Петорвич Лебедев)も6単弦及び7単弦ギター教則本をライプツィヒで出版、10単弦ギター用にはロシア民謡を50曲余り編曲したという。 19世紀末~20世紀前半の7単弦ギター奏者としてはトムスク音楽学校でシベリア地方初のギター科主任となったアルセニイ・ウラジミロヴィチ・ポポフ(Арсений Владимирович Поров)、民俗楽器合奏団指揮者・ギター奏者のピョートル・イヴァノヴィチ・イサコフ(Петр Иванович Исаков)、既述のJ. ブリームの師B. ペロット、モスクワ出身のギター教師・奏者・作曲家で1948年にВ. М.ユリサフと『ロシアの7弦ギター』を共同執筆したミハイル・イヴァーノフ(Михаил Иванов)、オレンブルク出身でアコード誌の執筆者も務めた鉱山技師・総合技術教授ウラジーミル・パヴロヴィチ・マシュケヴィチ(Владимир Павлович Машкевич)、モスクワのレフ・アレクサンドゥロヴィチ・メンロ(Лев Александрович Менро)など。モスクワ出身で雑誌『ギタリスタ(Гитариста)』を創刊したА.ソコロフ門下のヴァレリアン・ルサノフ(Валериан А. Русанов)は主弦7列ドローン弦4列24f11弦双棹ギターを使用している。 なおロシア・ギターは一般に「7弦ギター」と表記されるが 実際は主弦7列7単弦ギターの他に主弦6列浮遊弦3列または主弦7列浮遊弦2列の9単弦ギターや主弦6列浮遊弦5列の11単弦ギター等も多く使用されている。19世紀独墺でのバス・ギターレンの影響と思われるが、А.シハラがハープの表現をギターに取り込んでいた点も影響している可能性がある。А.シハラは元々ハープ奏者で、後に6単弦ギター、更に7単弦ギターへと転向した。理由はハープが高価で所有者が限られ生徒がつかない一方ギターは比較的安価で民衆にも広まっていったという経済的理由説とギターを非常に好んでいたという愛情説があるものの詳細不明とのこと。ハープの影響として4本指によるクロスストリング・トリル、音階的進行及び速い楽句でのスラーの多用、弾弦の運指指定、高音弦の長大なグリッサンド、複雑な装飾、カンパネッラ奏法等が指摘されているが、6単弦ギターやバロック・ギターの奏法にも全く無い訳ではないので調査中。 А.シハラはロシアの作曲家ミハイル・イヴァノヴィチ・グリンカ(ミハイール・イヴァーナヴィチュ・グリーンカМихаил Иванович Глинка)とも親交があり、彼の助言で「皇帝に捧げた命(Жизнь за царя)」や「ルスランとリュドミーラ(Руслан и Людмила)」のギター二重奏編曲を行なっている。М. И.グリンカ作曲の歌劇「皇帝に捧げた命」でイワン・スサーニン役を、歌劇「ルスランとリュドミラ」でルスラン役を、サンクト・ペテルブルク出身の作曲家モデスト・ムソルグスキー(モデースト・ペトゥローヴィチ・ムーソルグスキーМоде́ст Петро́вич Му́соргский)がボリース・ピョードロヴィチ・ゴドゥノーフ(Бори́с Фёдорович Годуно́в)をモデルにした歌劇「ボリース・ゴドゥノーフ(Бори́с Годуно́в, ボリス・ゴドノフ)」でヴァルラーム(Варлаам, Varlaam)役を、ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフ(Николай Андреевич Римский-Корсаков)作曲の歌劇「プスコフの娘(Псковитянка, The Maid of Pskov)」でイワン(ワリ・イワン・ヴァシリエヴィチ・グロジュニンЦарь Иван Васильевич Грозный, Ivan the Terrible)役を、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Пётр Ильич Чайковский)作曲の歌劇「マゼッパ(Мазепа)」でコチュベイ(Кочубей)役を演じたバス歌手のオシプ・アファナシェヴィチ・ピョートゥロフはА.シハラからギターの手解きを受けている。 この他А.シハラと他の作曲との関連では、ヴァレリアン・ルサモフ(Валериан Русамов)が作成した教本にA.シハラが1817年に作曲した「4つの演奏会用練習曲 第2番」が収録され、П. И.チャイコフスキーが同曲を賞賛していたのを直接聞いたとしているが詳細不明。また歌劇「スペードの女王(Пиковая дама)」の「愛の主題」序奏部分モルト・エスプレシーヴォに似た部分があるとの指摘も存在するが、確認中。その他、変奏付きロシアの歌「野原には一本の小道も無い(Русская Песня с вариациами, Не Одна во Поле Дороженька Пролегалй)」を作曲しているが、同民謡はアレクサンドル・ボロディン(アレクサーンドゥル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディーンАлекса́ндр Порфи́рьевич Бороди́н)も「中央アジアの平原にて」で用いている。 このような民謡に絡んだものは抒情詩のフレージングが基盤なので小節線を跨いだ変則的な楽句になることも多く、外国人が演奏する際は区切りやアクセントの位置を間違えやすいとのこと。 なお19世紀神聖ローマ帝国オーストリア公領ガリーツィエン(Galizien)(現ポーランド共和国Rzeczpospolita Polska領)クラクフ(Kraków)出身のギター奏者ヤン・ネポムツェン・ボブロヴィチ(Jan Nepomucen Bobrowicz)の使用ギターについては確認中。 現代では6単弦ギター用に編曲されていることや出身地は19世紀前半にロシア帝国領になったこともあるので、ロシアまたはウィーン系の多弦ギター奏者の可能性がある。彼は官僚・軍人・出版社社長でギター奏者としてはM.ジュリアーニの弟子にあたり、N.パガニーニやカロル・リピンスキ(Karol Lipinski)といったモダン・ソプラノ・ヴィオロン奏者、ロベルト・シューマン(Robert Schumann)夫人として知られるクララ・ヨゼフィーネ・ヴィーク=シューマン(Clara Josephine Wieck-Schumann)といったピアノ奏者と共演経験がある。ドボルヤーン(Doborján)出身の作曲家&鍵盤奏者フランツ・リスト(リスト・フェレンツLiszt Ferenc)はJ. N.ボブロヴィチのことを「ギターのショパン」と評したと言われている。
F.リストは19世紀半ばにヨーロッパで人気だったピアノ奏者・作曲家で、コンサートホールにおける単独公演を行なった初めての奏者とされている。1840年6月9日、ロンドンのハノーヴァー・スクウェア・ルームズでのことで、それ以前は賛助出演者を伴って独奏、独唱、室内楽等から成る演奏会が主流だった。ちなみに交響楽のみの演奏会はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(GEWANDHAUSORCHESTER LEIPZIG)が最初とのことで確認中。元々はオペラ開始前の前奏や遅刻者を待つ為の余興として演奏されていたという。 この他F.リストは弟子を多く持ち、現在まで続くピアノ演奏の多くの流派や運指法の源流になっている。日本でのロシア・ギターについては1917年のロシア革命時に亡命し函館(Hakodate)に居住したロシア人がギターを演奏して秋山富雄(Tomio Akiyama)等に影響与えたという情報があるが、そこで演奏されていたのが7単弦ギターまたはその延長の多弦ギターなのか、6単弦ギターなのかは現在調査中。 スペインでは当時のギター奏法を理論的・体系的に纏め上げてF.ソルやマドリー(マドリード, マドリッドMadrid)出身のギター奏者・作曲家・古字学者(※根拠不明との指摘有り)ディオニシオ・アグアド(ディオニシオ・アグアド・イ・ガルシアDionisio Aguado y García)の教本作成に影響を与えたナポリ出身のスペイン軍将校フェデリコ・モレッティ(Federico Moretti)が 1799年にマドリーで出版した教則本『6弦ギターの演奏原理(Principios Para Tocar la Guitarra de Seis Órdenes)』第2版の序文で、当該教本を6複弦または6単弦ギター向けとしながらも自身は7単弦ギター(La Guitarra de Siete Órdenes Sencillos)を使用していると記しており、教本そのものは初版が1792年、ナポリで出版された物のスペイン語版であることから、南欧でも18世紀末には既に利用され始めていたようだ。初版は5コース・ギター向けで、この頃イタリアでは6コース・ギターは知られていなかったと述べているが、これがナポリ等南イタリアでの状況なのかイタリア全体での状況なのかは確認中。北イタリアのフランス側では6単弦リラ・ギターが広まり始めていた可能性がある。なお教則本はその後1804年にナポリでの第3版が出されるがこれは第2版のイタリア語版で6コース・ギター向けとなっている。更にスペイン語版での第2版に当る第4版が1824年に出版された。楽器は15f仕様が想定されているが、指板を1~5f、6~10f、11~15fの3ポジションに分け、高域も多用している。 スペインではF.モレッティやD.アグアド、聖イグレシア大聖堂音楽教授・劇音楽及びソプラノ・ヴィオロン曲作曲家フェルナンド・フェランディエーレ(Fernando Ferandière)、マドリー出身のフランシスコ・トスタード・イ・カルヴァハル(Francisco Tostado y Carvajal)、フランシスコ・ゴヤ(Francisco Goya)の連作戯画『狂想曲(Los Caprichos)』第38番「万歳!(Brabisimo!)」でギターを弾く猿として描かれた宰相マヌエル・ゴドイ(Manuel Godoy)等の師に当たるギター&王室オルガン奏者でシトー会派(Sacer Ordo Cisterciensis)マドリー修道院のオルガン奏者も務めていたバシリオ司祭(ミゲル・ガルシーア"Padre Basilio" Miguel García)が7コースギターの一派を形成していたとエミリオ・プジョール(エミリオ・プジョール・ビラールビEmilio Pujol Vilarrubi)は記している。バシリオは一方で6コース・ギターを導入した最初期の人物で、6列目を追加した人物と7列目を追加した人物が共にこのバシリオ神父であるとする記事もあるが、イタリアでは6単弦ギターがそれ以前に存在していたようで、スペインにおける6コース・ギターの先駆者となるかも知れない。7コース・ギターも1760年前後には存在していたようで、奏者としてはバシリオ神父が現状最古。ボルボン朝第6代カルロス4世(Carlos de Borbón IV)の御前演奏で好評を得、王后マリア・ルイサのギター教師を務めることになった。また第9代イサベル2世(Isabel de Borbón II)がギターを好んでおり、アントニオ・カーノ(アントニオ・カーノ=クーリエラAntonio Cano-Curriela)及びフェデリコ・カーノ(Federico Cano)父子やトリニタリオ・ウエルタ(Trinitanio Huerta)も御前演奏を行なっている。 またムルシアーノが「グラン・ロンデーニャ ホ短調(Gran Rondeña Mi menor)」を演奏するために製作された7弦ギターがグラナダ・ギターで初の7コース・ギターという。19世紀に入ってからのことなので7単弦ギターの可能性が高く、またМ. И.グリンカは1845~46年にグラナダで滞在した際、ムルシアーノの演奏を聴いて感銘を受けたという。ただ生没年情報に1795-1845と1798-1848があり、同名の混同や真偽等確認中。 なおバシリオの楽曲や演奏については聖歌に酷似していた、2重奏曲が多い、8度と10度の和音を常用していた、単音や音階の速弾きを得意としていたといった評価があり、それらが7単弦ギター使用の理由と関係している可能性もあるが詳細不明で調査中。 ギターで弾いたファンダンゴ(Fandango)に関してはルイージ・ボッケリーニ(Luigi Boccherini)が「ギターと弦楽四重奏のための五重奏曲第4番 ニ長調 G.448 (Quintetto Nr. 4 in re maggiore G.448 "Fandango" per Chitarra e Quartetto d'archi)」に取り入れて模倣した。L.ボッケリーニはギター愛好家だったオスーナ侯爵ベナベンテ(Benavente, Marquis de Osuna)の庇護下にあったことからギターと弦楽の為の室内楽を12曲残しており、有名作曲家によるギターを含んだ最初の室内楽と言われている。後にパリで出版された際はギター・パートがモダン・アルト・ヴィオロン(Alto Violon)に代えられた。
19世紀末以降、F.ターレガと弟子のM.リョベートやE.プジョール、カステジョン・デ・ラ・プラーナ(Castellón de la Plana)出身でクラリネット(Clarinet)やピアノ、モダン・ソプラノ・ヴィオロン、バンドゥーリア(Bandurria)もこなしたダニエル・フォルテア(ダニエル・フォルテア・ギメアDaniel Fortea Guimeá)、アルベルト・オブレゴーン(Alberto Obregón)、ドミンゴ・プラト(Domingo Prato)等の影響でターレガ流爪弾奏法及び大型のトーレス型6単弦アンダルシーア(Andalusia)・コンサート・ギターが各地に広がった。最初に広まったのはスペイン本国よりF.ターレガの人気が高かったブエノス・アイレス(Buenos Aires)という。 このギターはF.ターレガの師の一人で、D.アグアドの弟子ホセ・アセンシオの教えを受けたマリア(Maria)出身の穀類販売商・ギター奏者フリアン・アルカス(フリアン・ガビーノ・アルカス・ラカールJulián Gabino Arcas Lacal)とサン・セバスティアン(San Sebastian)出身の陶器商・ギター製作家アントニオ・トーレス(アントニオ・デ・トーレス・フラードAntonio de Torres Jurado)が開発したもので、扇状力木配置(Fan Bracing)を継承している。J.アルカスはフラメンコ音楽をホールでの演奏会形式で取り上げた先駆者で、A.トーレスの1867年製18f6単弦「牡獅子(ラ・レオーナLa Leona)」を愛器とした。 扇状力木配置はA.トーレスの発明と書かれることもあるが、遅くとも18世紀中頃にアンダルシーア・ギターで生まれていた物で、現存最古はセビージャ(Sevillia)のフランシスコ・サンギーノ(Francisco Sanguino)による1759年製。他ファン・パヘース(Juan Pagés)及び息子のホセ・パヘース製(José Pagés)、後にキューバへ渡ったフランシスコ・パヘース(Francisco Pagés)製、ホセ・ベネディード(José Benedid)製、イグナシオ・デ・ロス・サントス(Ignacio de los Santos)製等に既に見られるとのこと。18世紀末~19世紀初頭のアンダルシーアでは、カーディスが貿易港として栄えてギター製作も盛んに行なわれ、その後マラガに中心が移ったとのこと。またマドリー等のカスティーリャ・ギターやバルセローナ等のカタルーニャ・ギターでは1800年以降に扇状力木配置が広まったと考えられている。 音量確保目的での大型化や薄化で生じる強度不足を補うためにヴィオロンに比して多数の力木を使用するが、結果的に表板の振動を阻害する要因となり、科学的測定においてはモダン・ソプラノ・ヴィオロンに比べて木材の違いによる影響が殆ど反映されないという結果が生じている他、運用面では長期間の使用で歪みや捩れが生じて振動する箇所にばらつきが出るという弊害が指摘されている。ギターの寿命は数十年と言われるのも打楽器的奏法が用いられる以外にこのような要因が関連していると思われるが、あくまでスペイン・ギターでの話で、ソプラノ・ヴィオロンと同じような簡素な力木配置及び分解容易な構造を導入したウィーン・ギター等他地域のギターでは比較的修理がしやすく長期間の使用が可能となっているようだ。 トーレス型コンサート・スペイン・ギターはA.トーレス存命中からスペイン国内で多く模倣され、20世紀以降は特にA.セゴビアの人気によって世界的な隆盛が決定的なものとなった一方で、7コース・ギターを含むヨーロッパ各地のギターは姿を消していった。これらはクラシック・ギター(クラシカル・ギターClassical Guitar)の代名詞になったトーレス型コンサート・スペイン・ギターとは区別され古楽器・民俗楽器という形で紹介・演奏されることが多いが、完全に絶滅したわけではなく現在でも土地固有の音楽と共に使用され、アメリカ大陸に伝えられた楽器も現地の音楽と結びついて重要な役割を果たしている。 なお、F.ターレガ自身は生涯19f6単弦ギターや20f6単弦ギターを使い続けたが、これは当時のスペイン・ギターとしてはフレットが多い方で、楽曲も高域の使用がみられる。20f仕様はシウダード・レアル(Ciudad Real)のギター製作家ビセンテ・アリアス(Vicente Arias)が製作していた。 また所有していたギターの1本はシャントレルのE4弦を取り除きブルドンにB1弦を追加したバリトン・ギター(「Sky II参照」)的な仕様にしている。これは1903年頃、F.ターレガ不在中に代講を務めていた実弟でソプラノ・ヴィオロン奏者のビセンテ・ターレガ(ビセンテ・ターレガ・イ・エイクセアVicente Tárrega y Eixea)が弟子のオレガリオ・エスコラーノ(Olegario Escolano)とE.プジョールへの学習課題として編曲したルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(ルートヴィヒ・ファーン・ベートファンLudwig van Beethoven)作曲の交響曲第5番ハ短調 作品67「運命」(Sinfonie Nr. 5 c-Moll op. 67 "Schicksals")の第2楽章アンダンテ・コン・モート(Andante Con Moto)のギター二重奏を効果的に実演するために帰郷後のF.ターレガが編み出したもので、その後L.v.ベートーヴェンの幾つかのピアノ・ソナタ作品などでも同様の調弦を利用してE.プジョールと二重奏を行っていたようだ。 7単弦ギターという形で実現しなかった理由については断定できるほどの情報は無く詳細不明。気に入る楽器が無かった、長年6単弦を使用しており弦を増やすのは違和感があったなどの理由が考えられるが、7コース仕様自体は既にスペインで生まれている。彼の所有ギターを製作したA.トーレスが7列目にB1を追加した主弦7列浮遊弦4列の11単弦ギターを製作した経歴があり(「Sky VI」参照)、同じくF.ターレガの所有機を製作したV.アリアスも11単弦ギターや8単弦ギターを製作していることからすると発想の前提として低音弦を追加する選択肢を知っていた可能性は高い。因みに20世紀後半のアメリカのロック・ギター奏者ポール・ギルバート(Paul Gilbert)はW. A.モーツァルトが作曲したピアノ・ソナタ第10番 ハ長調 K.330の第3楽章を「Whole Lotta Sonata」としてエレクトリック・ギターで演奏する際にギターを3パートに分け、低音パートはブルドンをA1に、高音パートはフレットを増設した25f仕様にするという形で6単弦ギターのまま対応している。彼はまた7単弦ギターを別の曲で使用しているが、こちらは以前から使用していたブルドン以外短2度(半音)下げの6単弦ギターにE♭2、E♭3、E♭4の3単弦を加えた双棹9単弦ギターの改良型として製作されている。双棹化した理由は オクターヴを利用したアルペジョを演奏するためで、単棹7単弦化したのは演奏性向上の為単棹に纏めたとのこと。P.ギルバートは様々な変則調弦やギターではあまり用いられない調性を積極的に活用する奏者として知られている。
7列目は通常膝臏夾立式モダン・ヴィオロンチェロのブルドンと同じC2。起源についての詳細は不明だが、ショーロの楽団が19世紀末にヨーロッパへ楽旅した際に持ち帰ったのがきっかけでコントラバス・ヴィオロンなどの低音担当楽器がいなかった代わりにベースパートを受け持ったのが発端という話がある。また農民の間では複弦で10弦からなるヴィオラゥン(Violão)が使われており中には14弦の物もあったという情報もある。これは5複弦のヴィオラ・カイピーラ(Viola Caipira)のことと思われる。現代の物は弦長580㎜ほどで19f、調弦はA3A2-D4D2-F4F#3-A3A3-D4D4など。「14弦」は単純に全列2本1対と考えれば7複弦ギターとなるが、ポルトガル系の楽器では一部を三重弦とすることもあり詳細確認中。ルネサンス・ビウエラでは5複弦、6複弦、7複弦仕様が使われていた。 ロックバンド、セパルートゥラ(SEPULTURA)のアンドレアス・キッサー(Andreas Kisser)はアルバム『ケイオスA. D.』収録の「カイオヴァス」でヴィオラ・カイピーラの表現を模倣している。 因みにここで言う「ヴィオラ」や「ヴィオラゥン」とはギターのことを指す。ポルトゥゲサ(ポルトガル共和国República Portuguesa)ではリウトやバンドーラ(Bandura, Pandora)、イギリス・ギター等と同系譜にあるギターラ・ポルトゥゲサ(Guitarra Portuguêsa)のことをギター(ギターラ)、スペイン・ギターをヴィオラ(ヴィオラゥン)と言う為。直接的には隣国スペインで「ギターラ」と呼ばれる楽器とヴィオラゥンは調弦則や音域が近似しており、楽器を膝臏夾立式擦弦楽器のガンバ属、その元になった前述の撥弦楽器ビウエラが好まれて使われていたことの影響かと思われる。17世紀までは擦弦楽器をヴィオラ・デ・アルコ(Viola de Arco)、撥弦楽器をヴィオラ・ダ・マーノといったように共鳴胴に棹のついた楽器全般を伊語で「ヴィオラ(Viola。あるいはフィドゥラFidula、ヴィトゥラVitula。古仏語ではフィデイユFideille, 中世仏語ではヴィオルViole, ヴィエユVielle, ヴィウラViula、ヴィエルVièle、西語ではビウエラVihuela, ビユエラViyuela、高地独語ではFidula, 中高地独語ではヴィデーレVidele, フィデルFiedel, 現代独語ではフィーデルFiedel、英語ではフィデレFiðele, フィテレFithele, フィドルFiddle、諾語ではフェーレFele、典語&愛語ではフィードゥラFidla、中世羅語ではフィデッラFidella, ヴィエッラVigella, ヴィトゥラVitula, ヴィドゥラVidula, ヴィアッラVialla, ヴィーエラViella)」、中世ローマでも「小さなキタラ」を意味するフィディクラ(Fidicula)を弦楽器の総称として用いた。元々は「弦」を意味するフィデ(Fides)という言葉から来ているようだが、大元を辿るとコーカサス地方オシーシャ(Ossetia)のファンディル(Fandir)に辿り着くという。 この総称としての使われ方の為現在の仏語や伊語でもアルト・ヴィオロンのことは区別して特に中音域を意味する「アルト(Alto)」を付して呼ばれることがある。またヴィオル属の中低音膝臏夾立式楽器バス・ドゥ・ヴィオル(Bass de Viole, ヴィオラ・ダ・ガンバViola da Gamba)でもソロ等で7単弦仕様が使われていた。なお、離島ではポルトガル領アゾレス諸島(Açores)の聖ミゲル島(São Miguel)で使われるギター、ヴィオラ・ダ・テルセイラ(Viola da Terceira)にも1~3列目を複弦、4~7列目を三重弦とする7コース18弦仕様が存在するが、何時頃現れた物かは現在調査中。 この他中南米各地の音楽でも7単弦ギターは利用されており、メキシコ合衆国(メヒコMexico)ハリスコ(Jalisco)州アウトラン・デ・グラナ(Autlán de la Grana)出身の作曲家でありギター及び膝臏夾立式モダン・ヴィオロンチェロ奏者でもあったラファエル・アダメ(ラファエル・ゴメス・アダメRafael Gómez Adame)は、1930年頃に7単弦ギターを使った「ギター協奏曲 第1番(Concierto No.1 Guitarra con acompañamiento de Orquesta)」を作曲・演奏しており「20世紀最初のギター協奏曲」と言われている。また1933年までには「小協奏曲 第2番(Concertino No.2 Guitarra con acompañamiento de Orquesta)」を作曲、こちらにも7単弦ギターが導入されていると思われる。この他の7コース・ギター協奏曲としてはマウリーシオ・カリーリョ(Maurício Carrilho)作曲の「7弦ギターとオーケストラのための組曲(Suíte para Violão de Sete Cordas e Orquestra)」等。R.アダメはこの他フリアン・カリーリョ(Julián Carrillo)のグルポ13(GRUPO 13)の初期メンバーとして24分律ギターのための楽曲も作曲・自演している。24分律ギター奏者としては他に20世紀前半チェコスロヴァキア出身のステパン・ウルバン(Sêpàn Urban)が、純正調奏者としては20世紀末のギター奏者ジョン・シュナイダー及び彼の属するジャスト・ストリングス(JUST STRINGS)が知られる。 近年ではブエノスアイレス出身のナイロン弦6単弦ギター奏者キケ・シネシ(Quique Sinesi)がソロ活動では低音側14f高音側17f接続のナイロン弦7単弦ギター他、5複弦ロンロコ、5複弦チャランゴ、ピッコロ・ギター、金属弦6単弦ギターを使用しているとのこと。 一方、北米のアメリカではジャズ音楽においてジョージ・ヴァン・エプス(George Van Eps)が5単弦バンジョー、6単弦ギターを経て1937年に自身のエピフォン製ギターをニュー・ヨークのエピフォン社の工房に持ち込み改造、A1の7列目を導入した。1968年にはグレッチ社から20f仕様のシグナチュアモデルも発表しているが、70年代半ばに途絶えている。背景にはディスコ音楽が流行し始めたことがあるようで、1978年頃からはギターの生産自体を停止し、ドラムのみに絞っていた。 ヴァン・エプスが7列目を追加した理由は7度音程を含む4和音の音響充実。他にベースのような動きも取り込めるという利点や母親がピアノ奏者だったことからピアノに影響を受けたこともきっかけのようで、7単弦ギターの響きを「股上ピアノ(Lap Piano)」と形容している。製作中に別の6単弦ギターのE4弦を取り除いた上でブルドンを追加する調弦を実践しており、これによって7単弦ギターを手にした時の混乱は特に無かったと後に語っている。 G.ヴァン・エプス以降、ロン・エシェテ(Ron Escheté)やバッキー・ピザレリ(ジョン・ポール・ビザレリJohn Paul "Bucky" Pizzarelli)及びジョン・ピザレリ(John Pizzarelli)父子、ハワード・モーガン(Howard Morgen)、アラン・ド・モーズ(Alan de Mause)、ハワード・オルディン(Howard Alden)、ジェリー・ボードワン(Gerry Beaudoin)、ヴァン・モレッティ(Van Moretti)、ジミー・ブルーノ(Jimmy Bruno)、ケニー・バーレル(Kenny Burrell)、アンディ・マッケンジー(Andy MacKenzie)、フレッド・フリード(Fred Fried)等現在まで数多くの7コース・ギター奏者が生まれている。なお、高音側に弦を追加したレニー・ブロウについては「Sky IV」の脚注参照のこと。 因みに日本で最初の7単弦ギター奏者は、現状確認の範囲内では主弦7列の21f7単弦モダン・スペイン・ギターを使用していた東北實業銀行(Touhoku Jitsugiyau Bank, 東北実業銀行Tōhoku Jitsugyō Ginkō、現七十七銀行 77 Bank、1932年に五城銀行Gojiyau Bank, Gojō Ginkō及び七十七銀行と合併した)行員の澤口忠左衞門(Chiuzayemon Sahaguchi沢口忠左衛門Chyūzaëmon Sawaguchi)。大正から昭和初期にかけて仙台(Sendai)で活動していたようで、東北帝國大學(Touhoku Imperial University, 東北帝国大学Tōhoku Teikoku Daigaku)マンドリン・クラブのマンドラ奏者や仙台アルモニア合奏団(仙台アルモニア合奏團Sendai Harmonia Orchestra)の指揮者も務めていた。
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日本では奈良時代伝来当時の4f4単弦曲頸仕様や胸上抱撮捍撥(Kanhatsu, 撥Bachi)による奏法が現在も維持されている。中国では衰退したが、現代でも陜北曲頸琵琶等一部に胸上抱撮・撥捩奏法が残っているようだ。中国琵琶ピパで指撥が現れたのは唐の太宗代貞觀年間(627-649)と言われるが、日本に演奏技術が伝わらなかったのか伝わったものの継承されなかったのかは不明。 この指撥への変更は搊琵琶(Sū-biwa)の項目で解説している記事もあり、当初は楽種や楽器を限定した特殊な用法だった可能性もあるが、詳細確認中。搊琵琶は西域の音楽である胡楽に使われる5コース曲頸洋梨形琵琶で、指撥前は木製捍撥を使用していたようだ。 7世紀前半当時の奏者としては趙璧が知られている。また8世紀末徳宗代では寝室の女官が、9世紀前半憲宗代では詩人元稹が使用していた記録がある。なお中国琵琶ピパでの股上垂直抱撮開始時期については調査中。フレットの増加が原因と考えられることから明代までには行われていたとみられる。 奈良(Nara)の東大寺(Tōdaiji)の正倉院(Shōsōin)宝物庫には琵琶本体の他に象牙製の牙撥縷撥(Kōgebachiru-no-bachi)が現存している。宝物庫は北倉、南倉が三角柱状の横木を組み合わせた校倉造(Azekura-zukuri)で有名だが、現在宝物はコンクリート製の新宝庫に保管されている。校倉造は枠組み壁構法の一種で、建築上は丸太小屋(ログハウスlog cabin)と同類。 角柱になっているのは数字に意味があり、3や5といった数字が中国で縁起の良い数字とされていたことに関係あるようだが詳細確認中。五角形の方が格が上とのこと。湿度の高い時は膨張し外気を遮断、湿度の低い時は収縮し通気をよくする事で内部を適切な状態に保ち、宝物を長期間良好に保ってきたという伝説も20世紀まで存在していたが、長期の機械計測によれば一時的で急激な変化を緩和する事は出来るものの外気との差はさほどなく、寧ろ庫内に置かれた桐箱の中に蔵めて外気から二重に隔たれた状態が有効に働いていたことを示唆する調査結果も出ているようだ。この伝説の起源については調査中。 又、当宝物庫所蔵の5単弦仕様は全長1081㎜で古来の物としては世界に唯一現存する5単弦直頸琵琶。当時の調弦や利用法は判明していないが平安時代までは貴族の娯楽としての器楽演奏の中でも利用されていたという。但しそれらが同型の物かは不明で確認中。12世紀以前に描かれたとされる「信西入道古楽図」の「五弦」は直頸真円形4軫で捍撥使用。描写の正確性の問題はあるが、2列目が複弦になった4コース5弦の可能性がある。 円形響胴の琵琶は現在月琴と呼ばれている。これは満月(full moon)の形状から来る名称で明代にはそう呼ばれていたようだが変化した時期については詳細確認中。長棹で大型の大月琴と短棹で小型の小月琴があり合奏で利用されている。ヴェトナムの宮廷音楽でも使用されていた他、 朝鮮でも使われていたようだ。日本でも近代に入っていたようだが詳細確認中。 古くは真円形響胴の楽器が琵琶と呼ばれており、晋代には4単弦直頸仕様だったようだ。奏者としては竹林の七賢の1人とされた阮咸(Gen Kan)が知られる。その後西域から洋梨形響胴の琵琶が伝わる頃には 秦琵琶、秦漢琵琶、秦漢子、秦漢等と呼ばれるようになるが、唐代に入って発見された壁画に阮咸が使っていたとされた琵琶と類似形状の楽器が描かれていたのを期に阮咸琵琶あるいは単に阮咸と呼ばれるようになった。 外来の洋梨形琵琶に比べ長棹なことからフレット数は多く一般に12~14fほど。通常4単弦だが小月琴では2単弦や2複弦仕様も存在している。 中国伝統の清楽でも外来の胡楽でも利用された。「柱十有二」「総二十声」とのことなので3度調弦と見られるが詳細確認中。 正倉院には他に全長996㎜の4単弦曲頸琵琶「螺鈿紫檀琵琶(Radenshitan-no-Biwa)」や 14f4単弦真円形響胴直頸琵琶「螺鈿紫檀阮咸(Radenshitan-no-Genkan)」、 琵琶譜も残されており、これが現存する日本最古の楽譜とのこと。 直頸琵琶の起源は、真円形についてはインドから西域を経由して前漢に伝来、洋梨形については5コース仕様がインドで生まれ西域を経由して北魏に伝来後、既にあった4コース直頸琵琶と融合したと言われる。他に前漢代に張騫が西域へ行って以降伝わったとする説もあるようだ。 一方曲頸琵琶の起源は、ペルシア・バルバットがガンダーラから天山南道を経由して前漢に伝来したとする説、 ペルシア・バルバットがインドからタリム盆地のオアシス都市国家クチャ(龜茲/亀茲Kiji, 屈茨, 屈支, 獲之, 库车)を経由して北魏へ伝来、その後南朝梁へ伝わったとする説、 インドから五胡十六国時代の350年に華北へ、551年迄に南朝梁へ伝わったとする説、 クチャから北魏へ伝わり既にあった直頸琵琶と融合したとする説等があるようだ。 曲頸仕様はヨーロッパのリウトにも採用されているが、これは現在でも東南アジア~南アジア~西アジア~中東~北アフリカまでの広範囲で使用されているアル=ウード(اَلْعود, ウードal-‘Udo, オウドOud)を由来としており、遡るとサーサーン朝ペルシャ(ساسانيان, Sāsāniyān)で発達している。7世紀頃にサーイヴ・カーイチール(Sāib Khāīhir) が発明したとも言われるが、短棹有棹撥弦楽器自体はそれ以前からあるので、曲頸仕様や複弦仕様、響胴形状等の確立ということも考えられ、詳細確認中。ペルシアではイーダーン(Īdān)と呼ばれ、 10世紀末頃にモハメド・イブン・アフマド・アルクワーリズミー(Muhammad Ibn Ahmad al-Khwārizmī)が 「アヒルの胸」を意味するバルバット(Barbat)と名付けたと言われている。 現代ウイグル語ではバルビット(Barbit)、 古代クチャ語ではヴィパンキ(Vipanki)、 梵語(古代インド語。文字名デーヴァナーガリー, サンスクリット)ではバルブー(BharBhu)、古典ギリシア語ではバルビトン(Barbyton)と呼ばれる類似の語があることから 中国語のピパ(pípa)も含めて共通の語源と考えられているようだ。 「琵琶」については漢代まで「批把」と書かれており、「批」がダウンストローク、「把」がアップストロークを意味するという。「琵琶」の表記に変わったのは晋代頃で、当時の楽器分類で琴の一種とされたことによるという説がある。 当初は4コース仕様で、現代でもチュニジア・アル=ウードでは4コース仕様が使用されている。5列目が加えられたのは9世紀頃、アッバース朝(الدولة العباسية, al-Dawla al-‘Abbāsīya)の首都バグダード(بغداد, Baghdād)の宮廷楽士長イブラーヒーム・アル・マウスィーリの弟子だったズィルヤーブ(アブ・アルハサン・アリ・イブン・ナフィ" أبو الحسن علي ابن ناف" زرياب, "Ziryab" Abu al-Hasan ‘Ali Ibn Nafi‘ )によると言われている。ズィルヤーブは「黒い小夜鳴鳥(Nightingale, Sayonakidori)」のことで、肌の色と歌声の美しさから名付けられた渾名。イブラーヒーム・アル・マウスィーリは息子で次の宮廷楽士長イスハーク・アルマウスィーリ(Ishaq al-Mawsili)と共に古代ペルシャ音楽や楽器をアラブ宮廷音楽に持ち込んで融合したとされる。またイブラーヒームの異母兄弟マンスール・アル・ザルザル・アル・ダーリジュはバルバト奏者・楽器製作家で、アラブのミズハールとペルシアのバルバットを融合してアル=ウードを作ったとも言われているが真偽不明。前述のアルクワーリズミーがバルバットの命名者であるとする説やアル=ウードがミズハールとの素材の違いを区別する為に名付けられたとの説を総合すれば、元々ミズハールしかなかったアラブ世界にペルシアのイーダーンを持ち込んだ、あるいはそれ以前から流入していたものの名前が区別されていなかったところにアル=ウードという名前を付けたとも考えられるが、関連は確認中。 ズィルヤーブはアッバース朝第5代ハリーファ(خليفة, khalīfa, カリフCaliph)のハールーン=アッラシード(アッラシード・ビッラー・アブー・ジャアファル・ハールーンهارون الرشيد,al-Rashīd bi-Allāh Abū Jaʻfar Hārūn, Hārūn al-Rasīd)に仕えた後、後ウマイヤ朝(خليفة قرطب, The Caliph of Córdoba)の首都コルドバ(Córdoba)へ移って第4代アブドゥ・アッラハマーン2世(عبد الرحمن الثاني, 'Abd al-Rahmāan II)の宮廷音楽家となり、ヨーロッパ初の音楽専門大学も開設した。このことがきっかけでアル=ウードや食事作法、新しい髪型をヨーロッパに伝えたと言われる。また彼は無柱指板に仮想フレット線も加えた他、マカーム(مقامة, maqāmāt)などの音楽理論を大成し中東、スペイン、所謂ジプシー音楽の起源の一端となったと考えられている。 仮想フレット線は遅くとも14世紀末までには獣腸製の紐を桿棹に巻くことで実体フレット化し各地に広まったようだ。なお中国直頸琵琶や阮咸琵琶等は早くから木製フレットが使用されているが、起源他詳細は調査中。 現在アル=ウードでは6コース11弦や6複弦仕様も存在しているが、こちらは19世紀になってから加えられたもので、由来については詳細不明。 調弦は4度を基本にしたG2-A2-D3-G3-C4だが奏者によっても異なり凹形調弦を採る者もいるとのこと。捍撥は木製または鳥羽軸だったが現代では水牛角製やセルロイド製等が利用される。棹胴接続位置は通常7f。また20世紀以降も5コース仕様は存続しており、20世紀前半のシリア~レバノン国境付近出身でエジプトにて活動したファリドェル・アトラシュ(ファリド・アル・アトラシュ)は5コース仕様を使用していたようだ。ペルシャ音楽やアラブ音楽では古来よりアル=ウードを使用して楽理を説明する等非常に重要な楽器だった。20世紀半ばまでは民謡歌手でもアル=ウードを弾くのが通常だったようだが近年はそうでもないとのこと。 日本の4単弦曲頸琵琶に関しては、これらと別に近代に入ってから筑前琵琶(Chikuzen Biwa)や薩摩琵琶(Satsuma Biwa)において5単弦仕様が生まれ、現在も継承されている。筑前琵琶が薩摩(現、鹿児島県)に渡り独自に発展、5単弦化したものが筑前琵琶に饋還した。薩摩では文武両道の価値観の下、武士の教養の一環として演奏されたようだが、少なくとも現代では女性奏者も多い。非常に大きな捍撥を使用し世界的にも珍しいとの指摘がある。これは緊急時に手裏剣として使う為との情報があるものの真偽不明で確認中。また、福建南曲4単弦曲頸琵琶は指扱だが水平抱撮で三日月形響孔を持っているとのことで関連確認中。
~整理中~これらの俗琵琶(Zoku Biwa)は唐代の仕様を残す楽琵琶(Gaku Biwa)とそれほどフレット数が変わらない一方で、現在ヴェトナムの旧宮廷音楽で使われている直頸弾琵琶ダン・ティ・バ(Ðàn Tỳ Bà)は16f4単弦仕様で捍撥も使用せず現代の中国直頸琵琶に近くなっている。ヴェトナムではインドの影響を受けていた時期もあるが、唐以降中国の影響が強くなっている。現在まで継承されているのは明代の様式。合奏での弦楽器には洋梨形以外に真円形の阮咸琵琶や三絃も加わる。 4単弦、5単弦以外の仕様も中国ではあったようで、宋代には六絃琵琶、七絃琵琶、八絃琵琶等が文献に挙がっている。 但し八絃琵琶は挿図を見る限り4複弦の可能性が高いと思われる。 六絃琵琶に関しても詳細不明で、6単弦、4コース6弦、3複弦といった可能性が考えられる。 胡楽で使用されたという大琵琶や小琵琶の解説本文では「四弦」としながらも挿図の糸巻は大琵琶が6本、小琵琶が5本となっており、 4コース6弦や4コース5弦、解説又は挿図の錯誤といった可能性が考えられるが詳細不明。洋の東西、古代・現代、楽種を問わず楽器解説における単弦と複弦の区別に関しては曖昧な物が非常に多いので注意が必要。 七絃琵琶については1列目最高音13fのみ全音間隔の隔孤柱で、2~7列目は12fの7コース13弦真円形琵琶。弾き易いように響胴の一部が削られた コンター加工がなされていたようだ。玄宗代の開元年間(713-741年)に鄭喜子(Tei Kishi)が使用していたとされるが、これが鄭専用の特別仕様だったのか一般にも使用されていたのかは不明。 この他歴史上名前の残る特定個人の琵琶としては5世紀末南斉の褚淵(Chǔ Yuān, Cho En)が使用した銀製フレットで金縷によって装飾された桿棹の金縷柄銀柱琵琶(Kinruhei-Ginchū-biwa, 金縷琵琶) 、9世紀前半、唐の文宗代に鄭中丞(Tei Chūjo)が所有した大忽雷(Dai-Kotsurai)、小忽雷(Shō-Kotsurai)等がある。尚銀製フレットは18世紀末~19世紀初頭の金属フレット導入期に西欧のギターにもあったようだ。 又、記述があるものの詳細確認中の物としては 一絃琵琶、雲和琵琶、中国で俗楽に使用されたという双鳳琵琶、 中国で胡楽で使用されたという崑崙琵琶、亀茲琵琶、蛇皮琵琶等。 尚、「弦」の代わりに「絃」という字をあてることもあるが、これは旧表記(弦の旧字というわけではない)。本来「弦」は弓に張った糸のことを意味し、「絃」は楽器に張った糸のことを指す字として「弦」から派生した俗字。現在の日本語ではどちらを使用しても構わないが、和楽では「絃」を使用することが多い。和製漢字ではなく中国でも使用されているが、「弦」も同様に楽器用の糸に対して使用している。この他日本では雅語として「緒(O)」を用い、三味線を三つの緒(Mitsu-no-O)、和琴を六つの緒(Mutsu-no-O)といったように楽器によらず弦の数で纏めた言い方をすることがある。弦楽器では弦の数をそのまま楽器の名称として使用するケースは世界中で見られる。 本稿では楽器の名称の一部として「絃」を使用する場合があるが、楽器の部品の一部や仕様を指して使用する場合は「弦」を用いる。 材質は駱駝や羊、豚、牛、獅子等の獣腸を蒸して撚ったガット(gut)を楽器用の弦に利用するのが一般的で、他にテニスのラケットやコンドーム(Condom)、風船等にも利用された。楽器弦としては湿度が上がると伸びて音が下がりやすいという欠点があるが、脂分が乾燥すると音色が悪くなるとの指摘もある。またフレット付き指板の楽器では押弦によって痛みやすい。一般的に弦が伸びきってそれ以上は殆ど伸びなくなった状態を「音が悪くなった」として交換の目安としているとみられる。耐久性は数時間~1週間ほど。悪条件では取り付けて間もなく切れる事もある。この他中世には一般奏者の間でウェールズ・ハープに騣(mane)、アイルランド・ハープで革が使用されたという。 一方東洋では膠(Nikawa, Glue)で固めた絹糸(Silk)を利用することが多い。ただしヨーロッパ・地中海世界に絹弦が全く無かったわけではなく元々アル=ウード等でも絹弦が使われており、後に羊や獅子の獣腸弦に変わった。また近代に入ってもウィーンで高音弦や巻弦の芯線として利用されていたことはあった。代用弦としても20世紀後半の日本でセミガットと呼ばれて絹弦が使用されたこともあったようだ。 一般的には20世紀後半以降ナイロン弦が利用されている。絹弦は獣腸弦と逆で乾燥すると切れ易いという欠点がある。動物由来の物ではモンゴル国(Монгол Улс)等の馬頭琴や中国南西部の彛(Yí, I)族で使用される馬頭小三弦で馬尾弦が利用されている。同じく彛族で使用される大三弦アルフヤモ(Erheyamo, 二合亜莫, 三弦亜莫)では絹弦の他に牛筋弦が使用されるようだ。傈僳(lìsù)族で使用される小三弦(Qlbbex, 期卒厄Qízúè)では麻弦も使用されることがある。 なお膠は木製楽器の接着剤としても広く使われている。水分やアルコールに弱く接着力も低いが、これは木材の歪みに柔軟で罅割れ等を起こしにくいことや内部補修・部品の交換が容易という利点がある。現代では米製のタイトボンド(Titebond)等が量産楽器に使われるが、接着力が強いため経年変化に対して無理な力が働きやすい他、指板の接着に使われた場合交換や反りの修理等には障害になるとの指摘もある。 弦楽器の発祥は狩猟用弓弧に張った糸を弾いて音を出した弦打(tsuru-uchi)にあり、南フランスのレ・トゥロワ・フレレ(Les Trois Freres)洞窟の旧石器時代(Palaeolithic)の岩絵に見られる他、アフリカ大陸ではオコンゴ(Okongo)やコーラ(Cora)と呼ばれる楽器があったようだ。 現在でもセネガル共和国(République du Sénégal)等で使用している部族は存在、 ウガンダでは地上起立仕様があって英語ではグラウンド・ズィサー(Ground Zither)と呼んでいるが本来の名称は確認中。また中米の一部海岸付近にも見られ、カナダ(Canada)の作曲家・芸術家・社会活動家バフィ・セント=マリー(ベヴァリ・セント=マリーBeverly "Buffy" Sainte-Marie)が復活演奏したという。また愛好者による作曲・演奏活動等も行われている。なお中南米では古来より飛び道具として投擲補助具を使った投石や投槍が使われていたことから、弓弧使用の起源については調査中。楽器としてはこの場合音響効果を高めるために奏者自身の口蓋が共鳴胴として利用され口弓(アルク・ミュジカルArc Musical)または口琴と呼ばれる。 当然1単弦ではあるが、瓢箪など空洞を持った植物の果実に複数の狩猟用弓弧を差し込んだ多弦弦打用楽弓(プリュリ・アルクPluri Arc)も存在し、ハープ(Harp)の直接の起源となっている。ブラジルの舞踊的武術カポエイラの伴奏に使われる共鳴胴付弓弧ビリンバウも捍撥で叩いて使用しているが、これはアフリカから伝わったもの。木の枝に金属線を張って弓弧を作り、椰子の実を刳り貫いて差し込むことで手作りされている。自動車のタイヤに使用される鋼鉄線が純度が高く丈夫として弦に使用している者もいる。 中東では古代、全域で使用されており、アッシュール(آشور, Asshur, アッシリアAssyria)では反りが深く小音量の夾痩形アッシュール・ハープ、反りが浅く大音量の王弓形エジプト・ハープが使用されていたようだ。これらは弓弧を母体にした1部品の響胴だが、バビロン人は響胴と弦蔵の2部品から成る三角形ハープを開発、 片手で捍撥による打弦を行う水平型三角形ハープと両手で指撥する垂直型三角形ハープの2種類が使用された。後にペルシャへ伝わったものは16世紀まで使用されたという。中央アジアや南アジアに伝わっている竪琴も水平型三角形ハープの系統になる。支柱を追加したのはシリア人で、強度増強が目的と言われている。ヨーロッパへ伝わった竪琴はこの3部品のシリア・ハープの系統になる。
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製造年はメディアによって1975年と1976年に分かれるが、1975年発表の『IN TRANCE』レコーディング直前に購入したことや
同アルバムのジャケットで女性が持っている物がそれであるとU.J.ロートが述べているところから本稿では1975年を採用した。76年説は
U.J.ロートがインタビューで「76年頃」という表現を用いたことがあったことに端を発すると思われる。
PUは高さを変更しており、センターはやや低め。これはセレクターを使わずに多少の音量・音質がコントロール 出来るとの考えによる。 アームは「ウィング・バー(Wing Bar)」と名付けており、過激なアーミングによって市販品が折れてしまうために取り替えたとのこと。1978年の段階で15本くらい取り替えているとコメントしている。2004年の北米ツアーでもリハーサルの際に折れて急造したことがあった。 きっかけはリッチー・ブラックモア(リチャード・ハロルド・ブラックモアRichard Harold "Richie" Blackmore)だが効果自体はジミ・ヘンドリクス(ジェイムズ・マーシャル・ヘンドリクスJames Marshall "Jimi" Hendrix)が行っていた表現を狙ったものでスコーピオンズ時代から使われていた。製作者は同バンドのベース奏者フランシス・ブッフホルツ(Francis Buchholz)。なお、テンションスプリングは3本または5本。
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*6 | ハンブルク(Hamburg)のクリス・アダムズ(Christopher "Chris" Adams)が開発し特許を取得した自動調弦機構。下駒付近にセンサーを搭載(後にピエゾPU搭載の下駒に一体化)し、ボリュームポッドと共用にしたコントロール・ノブを操作することで糸巻が自動的に回転して2~5秒で調律をする。
モーターは0.02セント単位で回転するが、時間を短縮させたい場合は最大2.5セント単位まで調節可能。完了するとノブのLEDが青色に点灯する。 汎用調弦の他ト長調調弦、ホ長調調弦、E♭調弦、D調弦などが可能。 また手動で調弦することも可能。U.J.ロートはスカイギター向けに7単弦用糸巻きの開発を依頼している。 Ch.アダムズは2007年1月にはギブソン社と契約、レスポール型やSG型ギター等にも一部搭載されロボット・ギター(Robot guitar)として販売、12月には日本にも輸入された。 自動調弦機構の初出については調査中だが、この他にトランス・パフォーマンス調弦機構(Trans performance tuning system)のザ・パフォーマ(Ther Performer)がある。これは糸巻ではなく下駒に自動調節のサドルと音を感知するディヴァイディッドPUを持った特殊な装置(Smart Bridge System)を設置する物で、響胴部にはこの他側部にLCDパネル(LCD Read out)、ボタン操作パネル(One touch tuning panel)が表面板上に設置される。電力は外付けのバッテリーを装着して供給。ジミー・ペイジ(Jimmy Page)がレスポール・カスタムにザ・パフォーマーやその前身となったDigital Tuning System-1を搭載したことで広く知られるようになった。
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